>身元調査 排他性kumeruoukokuさん
投稿者: asean_peace11 投稿日時: 2004/07/10 08:52 投稿番号: [897 / 1982]
おはようございます。
英国流な表現だと
「どちらの学校のご出身ですか?」
でしょうね。
ASEANでもそうですが、
いわゆる「価値観」が成立していると必然的に排他的になる訳です。
身元調査をするのも「相手を自分と同類の人間か否かを判断する基準」
を得ることが、結果的に自分も相手の安全も確保する唯一の手段
みたいな認識があるからだと思います。
つまり、相手が自分よりも下位の人間か?それとも上位の人間か?
又は同じレベルの人間か?が判断出来ないままで使われる
言葉や態度が非常に曖昧な表現や曖昧な態度のまま終始するのは
正直、疲れるからですね。
それよりは、相手との相対関係を明確にした方が、相手も疲れないし
こっちも疲れない、それにタイ人が使うワァイにしても
年長者から年少者に最初に使うと相手の寿命が7年縮むから
年長者から先に使ってはいけない・・とする掟等も言ってみると
「相手の立場を理解しなさい」という部分を具体的な戒めとして
上位者に求めている訳ですし。
つまり、宗教が日常化している地域程、それが部族的や民族的な
原始宗教みたいなものが残っていたとしても「価値観」は
多元化しない為に、社会の階層化が何時までも維持されたり、
その階層化を維持する為にそうした価値観を利用して
他者を排斥したり許容する基準にも使用する。
そういった構造に多くの第三世界がなっているんだと僕は考えています。
その証拠に、相手が外国人の場合、少しでも(下手でも)その国の
言葉を話すと、妙に喜んだりするのもそうした排他的な
要素の言葉と言うゲートが少しだけ下がるからでしょうし
その人間がそこの国の宗教の信者でもないのに、モスクに行ったり、
お寺に行って「見よう見まねで礼拝やお線香を手に仏像を拝む」
ことを容認したり、そうした行為をしようと誘ったりするのも
自分達の価値観と相手の価値観のゲートが下がるかどうか
を試す為に行われているというのが本当だと思います。
で、僕はそうした「お互いの価値観のゲート」が一定のレベル
下がってしまって、互いが相手を信用出来る人間だと認められる
ようになった「後」に残るのは相手が尊敬出来る人間か否か?
という信頼する以上の「個人的な領域」に入ってくると
考えてます。
(これも、ある種彼らの価値観の最後の部分でもあるとは思いますが)
僕なんかは日本に居る訳でも、アメリカに居る訳でもなく
彼らの国に居る訳ですから、そうした彼らの価値観を
優先しなければならない:礼儀としてですね:立場ですから
余計にそうなんですが、この最後の部分つまり「信頼」と「尊敬」
ってのは、上も書いたように個人のアイデンティティが明確であれば
ある程、認められる確率が高くなるのも事実だと思います。
極端な場合は、ある程度「わがまま」である方が、
頑固=自分の意思や考え方がしっかりしている人間・・として周囲が認める
そんな傾向が強いのも第三世界では一般的じゃないか、と考えます。
取敢えず
英国流な表現だと
「どちらの学校のご出身ですか?」
でしょうね。
ASEANでもそうですが、
いわゆる「価値観」が成立していると必然的に排他的になる訳です。
身元調査をするのも「相手を自分と同類の人間か否かを判断する基準」
を得ることが、結果的に自分も相手の安全も確保する唯一の手段
みたいな認識があるからだと思います。
つまり、相手が自分よりも下位の人間か?それとも上位の人間か?
又は同じレベルの人間か?が判断出来ないままで使われる
言葉や態度が非常に曖昧な表現や曖昧な態度のまま終始するのは
正直、疲れるからですね。
それよりは、相手との相対関係を明確にした方が、相手も疲れないし
こっちも疲れない、それにタイ人が使うワァイにしても
年長者から年少者に最初に使うと相手の寿命が7年縮むから
年長者から先に使ってはいけない・・とする掟等も言ってみると
「相手の立場を理解しなさい」という部分を具体的な戒めとして
上位者に求めている訳ですし。
つまり、宗教が日常化している地域程、それが部族的や民族的な
原始宗教みたいなものが残っていたとしても「価値観」は
多元化しない為に、社会の階層化が何時までも維持されたり、
その階層化を維持する為にそうした価値観を利用して
他者を排斥したり許容する基準にも使用する。
そういった構造に多くの第三世界がなっているんだと僕は考えています。
その証拠に、相手が外国人の場合、少しでも(下手でも)その国の
言葉を話すと、妙に喜んだりするのもそうした排他的な
要素の言葉と言うゲートが少しだけ下がるからでしょうし
その人間がそこの国の宗教の信者でもないのに、モスクに行ったり、
お寺に行って「見よう見まねで礼拝やお線香を手に仏像を拝む」
ことを容認したり、そうした行為をしようと誘ったりするのも
自分達の価値観と相手の価値観のゲートが下がるかどうか
を試す為に行われているというのが本当だと思います。
で、僕はそうした「お互いの価値観のゲート」が一定のレベル
下がってしまって、互いが相手を信用出来る人間だと認められる
ようになった「後」に残るのは相手が尊敬出来る人間か否か?
という信頼する以上の「個人的な領域」に入ってくると
考えてます。
(これも、ある種彼らの価値観の最後の部分でもあるとは思いますが)
僕なんかは日本に居る訳でも、アメリカに居る訳でもなく
彼らの国に居る訳ですから、そうした彼らの価値観を
優先しなければならない:礼儀としてですね:立場ですから
余計にそうなんですが、この最後の部分つまり「信頼」と「尊敬」
ってのは、上も書いたように個人のアイデンティティが明確であれば
ある程、認められる確率が高くなるのも事実だと思います。
極端な場合は、ある程度「わがまま」である方が、
頑固=自分の意思や考え方がしっかりしている人間・・として周囲が認める
そんな傾向が強いのも第三世界では一般的じゃないか、と考えます。
取敢えず
これは メッセージ 884 (kumeruoukoku さん)への返信です.
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