背景
投稿者: tommy39dec3 投稿日時: 2004/09/04 16:53 投稿番号: [1498 / 1982]
「●地元の信仰と対立したイスラム原理主義
ペレストロイカ後、チェチェンでは200以上のモスクが建設されるなど、信仰の自由化が進んだ。ロシア革命以来初めて、メッカ(サウジアラビア)への巡礼が許され、多くの人々が巡礼に行き始めた。
オイルダラーで金持ちになったサウジアラビアの財界人たちが、チェチェン人の巡礼資金を支援することも多くなった。中東諸国から、多くのイスラム聖職者がチェチェンに派遣され、聖典コーランを教える教室が、各地のモスクに併設された。
だがしばらくすると、中東からの聖職者の流入や、メッカへの巡礼や留学によって中東のイスラムを学んで帰ってきたチェチェン人が増えた結果、地元のスーフィズムの聖職者との衝突が始まった。
サウジアラビアで主流のイスラム教は「ワッハビズム(ワッハーブ信仰)」と呼ばれ、伝統にのっとった厳格な生活習慣を信仰者に求めるイスラム原理主義の信仰である。これは、開祖ムハンマド(マホメット)の時代の信仰を維持すべきだと考える「原理主義」的な信仰で、「聖者」などの人間を崇拝することや、歌や踊りを宗教儀式とすることに反対していた。
チェチェンのスーフィズムには、聖者崇拝や歌や踊りの儀式が不可欠だが、サウジアラビアからきたワッハビズムの聖職者は、これらを反イスラム的だと攻撃し、スーフィズムの聖職者と激しく対立した。
中略
「しかし、若者たちは違った。チェチェンではソ連崩壊後、ソ連時代からの国営企業が次々と閉鎖され,失業率が増え、場所によっては成人の8割が失業していた。将来への希望を失い,暇を持て余す若者らは、新しく作られたワッハビズムのモスクに行くようになったが、そこで教えられることは「ロシアや西欧の異教徒(キリスト教徒)によるチェチェン支配を許してはいけない」という、ワッハビズムに立脚したイスラム原理主義の考え方だった。」
中略
「ワッハビズムのイスラム原理主義勢力は、スーフィズムを排除して自分たちの教えを導入した山村を、当局の力の及ばない事実上の自治区域にし始めた。ワッハビズムが導入された山村では、既存のロシアの法律を破棄し「イスラム法」を導入することが宣言され、それを止めるためにやってきたロシア連邦警察とは、銃撃戦も辞さない構えで対立した。
このように、チェチェンの山岳地帯がイスラム原理主義の支配地域になっていくことに、ロシアは警戒感を強めた。チェチェンは1992年にロシア連邦への参加を拒否し、それに対する交渉が続いているうちに、チェチェンの反ロシア的なイスラム急進派の力が伸びていった。この傾向に終止符を打つため、ロシア軍は1994年9月、チェチェンに武力侵攻した。
ロシア軍が侵攻してきたとき、ドダエフ大統領は、欧米諸国に助けを求めた。大国に抑圧されてきた民族の独立を、人権問題として世界中で支援している欧米の「国際社会」は、きっとチェチェンのことも支援し、ロシアを非難してくれると期待した。 」
チェチェン紛争の背景 後編
2002.10.27
より引用
リンクが張れません。
ペレストロイカ後、チェチェンでは200以上のモスクが建設されるなど、信仰の自由化が進んだ。ロシア革命以来初めて、メッカ(サウジアラビア)への巡礼が許され、多くの人々が巡礼に行き始めた。
オイルダラーで金持ちになったサウジアラビアの財界人たちが、チェチェン人の巡礼資金を支援することも多くなった。中東諸国から、多くのイスラム聖職者がチェチェンに派遣され、聖典コーランを教える教室が、各地のモスクに併設された。
だがしばらくすると、中東からの聖職者の流入や、メッカへの巡礼や留学によって中東のイスラムを学んで帰ってきたチェチェン人が増えた結果、地元のスーフィズムの聖職者との衝突が始まった。
サウジアラビアで主流のイスラム教は「ワッハビズム(ワッハーブ信仰)」と呼ばれ、伝統にのっとった厳格な生活習慣を信仰者に求めるイスラム原理主義の信仰である。これは、開祖ムハンマド(マホメット)の時代の信仰を維持すべきだと考える「原理主義」的な信仰で、「聖者」などの人間を崇拝することや、歌や踊りを宗教儀式とすることに反対していた。
チェチェンのスーフィズムには、聖者崇拝や歌や踊りの儀式が不可欠だが、サウジアラビアからきたワッハビズムの聖職者は、これらを反イスラム的だと攻撃し、スーフィズムの聖職者と激しく対立した。
中略
「しかし、若者たちは違った。チェチェンではソ連崩壊後、ソ連時代からの国営企業が次々と閉鎖され,失業率が増え、場所によっては成人の8割が失業していた。将来への希望を失い,暇を持て余す若者らは、新しく作られたワッハビズムのモスクに行くようになったが、そこで教えられることは「ロシアや西欧の異教徒(キリスト教徒)によるチェチェン支配を許してはいけない」という、ワッハビズムに立脚したイスラム原理主義の考え方だった。」
中略
「ワッハビズムのイスラム原理主義勢力は、スーフィズムを排除して自分たちの教えを導入した山村を、当局の力の及ばない事実上の自治区域にし始めた。ワッハビズムが導入された山村では、既存のロシアの法律を破棄し「イスラム法」を導入することが宣言され、それを止めるためにやってきたロシア連邦警察とは、銃撃戦も辞さない構えで対立した。
このように、チェチェンの山岳地帯がイスラム原理主義の支配地域になっていくことに、ロシアは警戒感を強めた。チェチェンは1992年にロシア連邦への参加を拒否し、それに対する交渉が続いているうちに、チェチェンの反ロシア的なイスラム急進派の力が伸びていった。この傾向に終止符を打つため、ロシア軍は1994年9月、チェチェンに武力侵攻した。
ロシア軍が侵攻してきたとき、ドダエフ大統領は、欧米諸国に助けを求めた。大国に抑圧されてきた民族の独立を、人権問題として世界中で支援している欧米の「国際社会」は、きっとチェチェンのことも支援し、ロシアを非難してくれると期待した。 」
チェチェン紛争の背景 後編
2002.10.27
より引用
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これは メッセージ 1496 (asean_peace11 さん)への返信です.
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