アセアンの独り言:心象風景-1
投稿者: asean_peace11 投稿日時: 2004/08/28 08:38 投稿番号: [1459 / 1982]
おはようございます、
どうも昨日は終日、通信回線のトラフィックがメチャクチャに悪く
機械的な問題なのか、回線の問題なのか・・・
さて、
これからお話させて頂く内容は、本当に個人的なモノですので
汎用性があるか?は少々疑問ではあるんですが、僕ら外個人スタッフ
の中では、100%全員が表現こそ違え大方は同様の認識として
持っている内容です。
[差別意識を乗り越えるものとは]
僕と女房がこのマレーシア(ASEAN)での活動に参加して今年の11月で
5年目に入ります(それ以前の活動から合計すると丸8年目になります、
女房はもうちょっと長い・・笑)
いわゆる”差別感”や”優越感”等言ったモノが僕の中に「無いか?」
と言うと実は『存在している』と認識する所から僕も女房も
スタートしているのです。
逆な表現をすると「人種的な差別を”しない”とか”優越感を持たない”」
というのは、『意識しなければ、決して持つことが出来ない”意識”』
という理解を持っているということです。
ところが、”しない意識”は意思的にしか持つことが出来ないのに対して、
差別感や優越感等といったモノは非常に簡単で、些細な事柄から簡単に
生まれて来ると考えています。
例えば、
僕らなら「鼻をかむ」という行為は”特別な行為”として認識していませんが
ASEANでは(家族同士であろうが)いきなり鼻をかむ、と周囲の人間は
”先ず、驚いて、次に大変’嫌な顔’”をします、つまりこの行為は
彼らからすると『非常に下品な行為=彼らの道徳観に反する行為』
としての理解があるからなのです。
逆に僕らからすると、彼らが行う「どんなモノでも見境無く、そこら辺に
モノを捨てる」という行為には”思わず顔をしかめたくなる”行為として
写ります、つまりこの行為は僕らにとって『公衆道徳等をわきまえていない
品性を欠いた行為=僕らの道徳観に反する行為』としての理解があるからです。
ただ、こうした”些細なこと”の多くは、生まれて育って来た”環境”、
つまり後発的なものが育て上げた「道徳観、倫理観の基準の違い」や
「自分の外の世界(社会)への認識に仕方の違い」といったもの
なのですが、お互いの自国に居る場合は、そうした生活の原則的な部分の
認識は、理屈を超えて小脳的なモノとして身に染み付いてしまっているのが
普通だと思います。
(食事の仕方等はその代表的なモンではないかな?と思います)
上述したモノ以外の”生まれて初めて出会う文化や習慣や慣習”も、
事前学習の知識を例え持っていたとしても「慣れる迄」は『奇妙』なモノと
して写ります。
つまり「そうした”奇妙に見える違い”から差別感を抱くことはいけないことだと
”頭”では理解していても”生理的”に受入れられないコトは必ず何処かに存在する」
ものだということです。
この生理的に受入れられないモノやコト、として僕らが認識しているのは、
そのほとんどが、いわゆる”情動的、感情的な領域”で受取ってるのだろうと
僕は理解しています。
すなわち、「そう感じるのはなぜか?どうしてか?」を理屈として言葉では
具体的に説明不能な領域で認識ではなく”感じていることが多い”のではないか
ということです。
こうした、些細で奇妙な表面的違いからの違和感が積み重なると
より大きな奇妙となる
『一つの物事に対する”理解の仕方”や”考え方”の違い』にも
必ずぶつかって、それらが”思い当たる節”として
『理屈抜きに”一連の奇妙な違いの塊”として”納得してしまう”』ことも
別段、不思議なことではないだろうと考えています。
続きます
どうも昨日は終日、通信回線のトラフィックがメチャクチャに悪く
機械的な問題なのか、回線の問題なのか・・・
さて、
これからお話させて頂く内容は、本当に個人的なモノですので
汎用性があるか?は少々疑問ではあるんですが、僕ら外個人スタッフ
の中では、100%全員が表現こそ違え大方は同様の認識として
持っている内容です。
[差別意識を乗り越えるものとは]
僕と女房がこのマレーシア(ASEAN)での活動に参加して今年の11月で
5年目に入ります(それ以前の活動から合計すると丸8年目になります、
女房はもうちょっと長い・・笑)
いわゆる”差別感”や”優越感”等言ったモノが僕の中に「無いか?」
と言うと実は『存在している』と認識する所から僕も女房も
スタートしているのです。
逆な表現をすると「人種的な差別を”しない”とか”優越感を持たない”」
というのは、『意識しなければ、決して持つことが出来ない”意識”』
という理解を持っているということです。
ところが、”しない意識”は意思的にしか持つことが出来ないのに対して、
差別感や優越感等といったモノは非常に簡単で、些細な事柄から簡単に
生まれて来ると考えています。
例えば、
僕らなら「鼻をかむ」という行為は”特別な行為”として認識していませんが
ASEANでは(家族同士であろうが)いきなり鼻をかむ、と周囲の人間は
”先ず、驚いて、次に大変’嫌な顔’”をします、つまりこの行為は
彼らからすると『非常に下品な行為=彼らの道徳観に反する行為』
としての理解があるからなのです。
逆に僕らからすると、彼らが行う「どんなモノでも見境無く、そこら辺に
モノを捨てる」という行為には”思わず顔をしかめたくなる”行為として
写ります、つまりこの行為は僕らにとって『公衆道徳等をわきまえていない
品性を欠いた行為=僕らの道徳観に反する行為』としての理解があるからです。
ただ、こうした”些細なこと”の多くは、生まれて育って来た”環境”、
つまり後発的なものが育て上げた「道徳観、倫理観の基準の違い」や
「自分の外の世界(社会)への認識に仕方の違い」といったもの
なのですが、お互いの自国に居る場合は、そうした生活の原則的な部分の
認識は、理屈を超えて小脳的なモノとして身に染み付いてしまっているのが
普通だと思います。
(食事の仕方等はその代表的なモンではないかな?と思います)
上述したモノ以外の”生まれて初めて出会う文化や習慣や慣習”も、
事前学習の知識を例え持っていたとしても「慣れる迄」は『奇妙』なモノと
して写ります。
つまり「そうした”奇妙に見える違い”から差別感を抱くことはいけないことだと
”頭”では理解していても”生理的”に受入れられないコトは必ず何処かに存在する」
ものだということです。
この生理的に受入れられないモノやコト、として僕らが認識しているのは、
そのほとんどが、いわゆる”情動的、感情的な領域”で受取ってるのだろうと
僕は理解しています。
すなわち、「そう感じるのはなぜか?どうしてか?」を理屈として言葉では
具体的に説明不能な領域で認識ではなく”感じていることが多い”のではないか
ということです。
こうした、些細で奇妙な表面的違いからの違和感が積み重なると
より大きな奇妙となる
『一つの物事に対する”理解の仕方”や”考え方”の違い』にも
必ずぶつかって、それらが”思い当たる節”として
『理屈抜きに”一連の奇妙な違いの塊”として”納得してしまう”』ことも
別段、不思議なことではないだろうと考えています。
続きます
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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