>自由を保障するもの
投稿者: katuragi1940 投稿日時: 2004/08/23 19:35 投稿番号: [1439 / 1982]
こんばんは
アセアンさん
私は基本的には権力は横暴なものだと理解しています。
個人には百人百様の生き様があるのに、その百人が住んでいる国のありさまは同時代においてはひとつしかないわけです。
ゆえに、一人がベストだと思っても他の人にとってはベターでしかなく、中にはワーストだと思う人だっているかもしれない。
それでも国家としての体裁を持とうとすればそれぞれの思いを大なり小なり押しつぶすしかないわけです。
独裁者は一人の考えでそれを実行し、民主国家は過半数の賛同を持って実行する。
しかし、その中で人の思いは全部だろうが少数だろうが無視されてゆく。
国家がろくなものではないと言うのはこの意味において正しいわけです。
人それぞれの成り立ちに信を置いて、個人の尊厳の上に成り立っているわけではなく、人はそれぞれであるがゆえに全体を統一するものが必要なわけです。
私などは、その文脈の中で治安維持のためにはしっかりとした政府が必要であり、その裏づけとして「力」は欠くべからざるものだと考えるわけです。
その意味でイラクでは傀儡政権だろうと何だろうと、一応民主主義の体裁をとっているならまず治安を優先させて国に秩序をもたらすべきだと考えてしまうわけです。
ベストの選択でもないし、ベターですらないかもしれない、しかし無政府状態よりはいい。
そして、治安が安定し、豊かになっていくことが出来るならば、日本がそうであるように「権力の存在を忘れることが出来る」ことも可能なわけです。(絶対出来るかどうかはわかりません)
そう考えれば、今ある政権の自由度が低いからといっていきなりわれわれの基準を押し付けてしまっていいとは思えない。
それから言うと米国の人権外交は一種まやかしの領域に近いと思っていますし、本気で信じているとしたらもう一回マキャベリズムを学びなおすべきだと思います。
そしてそういう国々が世界にいっぱいあるからこそ、用心してかかる必要があると思います。
用心するのはいろいろな意味がありますね。
まず依って立つ常識が違っているかもしれない。
話がいきなり反故にされるかもしれない。
いきなり問答無用だってあるかもしれない。
文化の独自性云々を言い出したら、真の意味での理解はなかなか難しい。
その点では私は悲観主義者です。
神の考え方をはじめとして依って立つところが違う人が真に理解しあえるとは思えない。
それは表面的な妥協の積み重ねに過ぎないと思います。
しかし、現実的にはそれでもいいのではないでしょうか。
その妥協の積み重ねの上にはひょっとしたら真の理解が待っているかもしれないのです。
ですから、まずは相手が違うんだと用心してかかること、同じ土俵にあると思い込んで押し付けないことが大事でしょう。
そして真の理解が得られない世界では次善の策として力による安全保障は捨て去れるものではないと思います。
妥協を繰り返しながら理解を深め、その過程でいつの日か軍備がなくなる。
今のところそのくらいしか考えられない。
「軍隊がなければ戦争はない」はその通りですが、人としてのありようが変わらない限り争いはなくならないでしょう。
軍隊は手段であり、人のありようとは違うからです。
取り敢えずです。
アセアンさん
私は基本的には権力は横暴なものだと理解しています。
個人には百人百様の生き様があるのに、その百人が住んでいる国のありさまは同時代においてはひとつしかないわけです。
ゆえに、一人がベストだと思っても他の人にとってはベターでしかなく、中にはワーストだと思う人だっているかもしれない。
それでも国家としての体裁を持とうとすればそれぞれの思いを大なり小なり押しつぶすしかないわけです。
独裁者は一人の考えでそれを実行し、民主国家は過半数の賛同を持って実行する。
しかし、その中で人の思いは全部だろうが少数だろうが無視されてゆく。
国家がろくなものではないと言うのはこの意味において正しいわけです。
人それぞれの成り立ちに信を置いて、個人の尊厳の上に成り立っているわけではなく、人はそれぞれであるがゆえに全体を統一するものが必要なわけです。
私などは、その文脈の中で治安維持のためにはしっかりとした政府が必要であり、その裏づけとして「力」は欠くべからざるものだと考えるわけです。
その意味でイラクでは傀儡政権だろうと何だろうと、一応民主主義の体裁をとっているならまず治安を優先させて国に秩序をもたらすべきだと考えてしまうわけです。
ベストの選択でもないし、ベターですらないかもしれない、しかし無政府状態よりはいい。
そして、治安が安定し、豊かになっていくことが出来るならば、日本がそうであるように「権力の存在を忘れることが出来る」ことも可能なわけです。(絶対出来るかどうかはわかりません)
そう考えれば、今ある政権の自由度が低いからといっていきなりわれわれの基準を押し付けてしまっていいとは思えない。
それから言うと米国の人権外交は一種まやかしの領域に近いと思っていますし、本気で信じているとしたらもう一回マキャベリズムを学びなおすべきだと思います。
そしてそういう国々が世界にいっぱいあるからこそ、用心してかかる必要があると思います。
用心するのはいろいろな意味がありますね。
まず依って立つ常識が違っているかもしれない。
話がいきなり反故にされるかもしれない。
いきなり問答無用だってあるかもしれない。
文化の独自性云々を言い出したら、真の意味での理解はなかなか難しい。
その点では私は悲観主義者です。
神の考え方をはじめとして依って立つところが違う人が真に理解しあえるとは思えない。
それは表面的な妥協の積み重ねに過ぎないと思います。
しかし、現実的にはそれでもいいのではないでしょうか。
その妥協の積み重ねの上にはひょっとしたら真の理解が待っているかもしれないのです。
ですから、まずは相手が違うんだと用心してかかること、同じ土俵にあると思い込んで押し付けないことが大事でしょう。
そして真の理解が得られない世界では次善の策として力による安全保障は捨て去れるものではないと思います。
妥協を繰り返しながら理解を深め、その過程でいつの日か軍備がなくなる。
今のところそのくらいしか考えられない。
「軍隊がなければ戦争はない」はその通りですが、人としてのありようが変わらない限り争いはなくならないでしょう。
軍隊は手段であり、人のありようとは違うからです。
取り敢えずです。
これは メッセージ 1429 (asean_peace11 さん)への返信です.
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