内心の自由
投稿者: assaraamaaleicomnjp 投稿日時: 2005/04/02 22:29 投稿番号: [634 / 1657]
ネオコンさんてさあ、普段ちゃんと敬意を払われているから、時々ぞんざいな扱いされると悔しくて仕方がないんでしょう?・・・関係ないけど(^_^;)
>よく人のことを 鈍感 なんていえるもんだね
鈍感かどうかは、頭の良し悪しとは無関係だから、説明出来る出来ないとは無関係だと思うよ?・・ネオコンさんがいつも頭が良いことをお書きのことは始めから否定していないでしょう?
・・・だから「ネオコンさんらしくない」と言う言葉を良く使ったでしょう?
だからといって鈍感じゃないとも言えないわけですよ。今回のことに問題意識を持てないネオコンさんは、鈍感じゃないかなあと私個人が感じるだけ。
>→結果: 東京都教育委員会の行動のほうが少なくとも分かりやすいので
世論の(消極的な)指示を得る。
世論の支持を得るかどうかの傍観者的立場は非常に無責任だと言う感想はおいておいて、これが支持を得ることが私に対して残念でしたという感想に帰結すること自体情けない。
私個人は、日教組とも他の運動母体ともいっさい無関係だから、私の論拠が薄弱だからといって、多の運動母体を論破したことにはならない。
>つまり反都教の立場が"正しい"かどうかは別途検証されなければならない。
まあ吟味は必要だけれども、ネオコンさんの「現在の反国家国旗運動はジャムパンを含むあらゆる"強制"に反対しているだけ」このことに対する鈍感さは救いがたいと思いますよ。
ここを過小評価しかできないとしたら、問題意識も何も、検証さえもその本質的な重大性を納得出来ない状態ができアリ、その事そのものが無駄に終わりかねませんよ。
>総括をしていないので「内心の自由」という
>安易で曖昧なレトリックを論拠にしてしまっている
何だかこの一連のお話の中で、この憲法の「内心の自由」という概念ですが、解釈的にはいまだに未成熟であるということは少し理解出来ました。つまり、明らかに自分の思っていることを物理的な制約を突きつけられて我慢せざるを得ない屈辱的で基本的人権に抵触しそうな問題に対して、その理解がいまだに完成されていない。
「内心の自由」というものが、憲法上に存在するということは、これが名目だけに終わらない、国民のための柔軟な解釈がなされるべきなのに、いまだにそれは旧態然とした無用の長物のごときものとしてただただ奥の方に鎮座しているに過ぎません。しかしこれが、永久にそのままであることは、憲法にわざわざ採用された存在自体を否定しかねない存在意義に関わるものだと思うので、せっかくあるこの概念を有効に使うことができるために、これから、また新しい解釈なり、新しい意識なりが付加されて、有効に活用されうるときがやがて来るだろうと、私は思いました。
そのためには、この権力者に対するいわれの無い強要に対して、これは「おかしい」「良くない」「これはやめるべきだ」と言ったより鋭い感性が要求されると思いました。この「感性」という原動力の無い状態では、本来の憲法の存在意義として、多分何も(国民のためにいい方向として)変ることはないだろうと思いました。
>よく人のことを 鈍感 なんていえるもんだね
鈍感かどうかは、頭の良し悪しとは無関係だから、説明出来る出来ないとは無関係だと思うよ?・・ネオコンさんがいつも頭が良いことをお書きのことは始めから否定していないでしょう?
・・・だから「ネオコンさんらしくない」と言う言葉を良く使ったでしょう?
だからといって鈍感じゃないとも言えないわけですよ。今回のことに問題意識を持てないネオコンさんは、鈍感じゃないかなあと私個人が感じるだけ。
>→結果: 東京都教育委員会の行動のほうが少なくとも分かりやすいので
世論の(消極的な)指示を得る。
世論の支持を得るかどうかの傍観者的立場は非常に無責任だと言う感想はおいておいて、これが支持を得ることが私に対して残念でしたという感想に帰結すること自体情けない。
私個人は、日教組とも他の運動母体ともいっさい無関係だから、私の論拠が薄弱だからといって、多の運動母体を論破したことにはならない。
>つまり反都教の立場が"正しい"かどうかは別途検証されなければならない。
まあ吟味は必要だけれども、ネオコンさんの「現在の反国家国旗運動はジャムパンを含むあらゆる"強制"に反対しているだけ」このことに対する鈍感さは救いがたいと思いますよ。
ここを過小評価しかできないとしたら、問題意識も何も、検証さえもその本質的な重大性を納得出来ない状態ができアリ、その事そのものが無駄に終わりかねませんよ。
>総括をしていないので「内心の自由」という
>安易で曖昧なレトリックを論拠にしてしまっている
何だかこの一連のお話の中で、この憲法の「内心の自由」という概念ですが、解釈的にはいまだに未成熟であるということは少し理解出来ました。つまり、明らかに自分の思っていることを物理的な制約を突きつけられて我慢せざるを得ない屈辱的で基本的人権に抵触しそうな問題に対して、その理解がいまだに完成されていない。
「内心の自由」というものが、憲法上に存在するということは、これが名目だけに終わらない、国民のための柔軟な解釈がなされるべきなのに、いまだにそれは旧態然とした無用の長物のごときものとしてただただ奥の方に鎮座しているに過ぎません。しかしこれが、永久にそのままであることは、憲法にわざわざ採用された存在自体を否定しかねない存在意義に関わるものだと思うので、せっかくあるこの概念を有効に使うことができるために、これから、また新しい解釈なり、新しい意識なりが付加されて、有効に活用されうるときがやがて来るだろうと、私は思いました。
そのためには、この権力者に対するいわれの無い強要に対して、これは「おかしい」「良くない」「これはやめるべきだ」と言ったより鋭い感性が要求されると思いました。この「感性」という原動力の無い状態では、本来の憲法の存在意義として、多分何も(国民のためにいい方向として)変ることはないだろうと思いました。
これは メッセージ 608 (neo_con_spiracy さん)への返信です.
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