涙が止まらない
投稿者: take_the_rag_away 投稿日時: 2006/01/26 23:56 投稿番号: [1045 / 1062]
床の間に置かれた一辺50cmのガラスケースに、グレーの帽子が収まっている。右後頭部に、直径1cmにも満たない小さな穴が開いており、縁にはかすかに焦げたような跡がある。左前頭部の生地は、縦に大きく引き裂け、帽子の内側には、ところどころ薄れかかった血液のような茶色の痕跡が残っている。抜けて残った銀色の毛髪が生々しい。
世界の戦場を渡り歩いたジャーナリストの夫、信介=当時(六一)=が銃弾に頭を撃ちぬかれて命を奪われた″物証″だ。見る者に銃弾や戦争の恐ろしさを突きつけるが、妻はそこに、夫が生きたことの証しを見、ぬくもりを感じている。
二十八日午前六時二十分過ぎ、イラクに同行していた功太郎の家族から電話連絡を受けたあとは、息つく間もなかった。同日夕方の六時には、都内のホテルで記者会見に臨んだ。
「このたびは夫のことでお騒がせしまして、申し訳ありません」「夫も私も、覚悟はできていました」「ジャーナリストの大先輩として尊敬しています」矢継ぎ早になされる質問に、一つ一つ冷静に答えた。取り乱している暇はなかった。
生家の屋号から「こみかどのゆっこちゃん」と呼ばれた活発な少女は、昭和二十八年八月、静岡県清水町に生まれた。
父は国立大学の物理科を卒業した県立高校の数学の教師。一方の母も戦中、女学校で薙刀を教えていた。
両親から勉強しろといわれたことは一度もなかったという。ただ、「人さまに迷惑をかけるようなことを恥ずかしいと思う感覚、恥の精神は持っていました」。日本女子大文学部へ進み「文部省で働こう」と、漠然とした将来像も描いた。卒業論文のテーマは「フリースクール」。先進国の米国に研究にも行った。
だが、「なんだか、つまらない」と思いだした大学四年のとき、転機が訪れた。学園祭でベトナム戦争の実情を伝える展示会を企画し、写真の貸し出し依頼に出向いた日本電波ニュース社に、信介がいた。
「ひょろりと背が高く、日焼けした妙な人だわ」。これが第一印象。だが、ベトナムの戦地から戻ったばかりの信介の話は、面白かった。
志向はマスコミに変わり、大学卒業後はNHKに勤務。番組のリポーターを約二年やったが、「やっぱりつまらない」。
そんな時、信介がバンコクへ派遣されることになった。幸子は「面白そう」と同行を決めた。
「男と女の関係なんて、紙切れ一枚役所に出すか、出さないかのものではないはず、と思っていました」
結婚するつもりはなかったが、「橋田記者がバンコクの自宅に女性を連れ込んで暮らしている」と本社でうわさになっていることが分かり、入籍することにした。
以来、バンコクに通算十三年以上、ローマでも暮らした。夫はカンボジア内戦やビルマ動乱、アフガン戦争を現場から伝え続け、妻は時にパートナーとして取材に同行し、時に家で一人息子と、夫の無事を祈った。
夫に振り回され続けたようにも映るが、「信介さんとの人生は、次から次へ楽しいことばかり。本当に幸せでした。」
信介は取材の傍ら、イラク戦争で片目を負傷したファルージャの少年、モハマド君に日本で手術を受けさせようと奔走していた。だが、信介の死で少年の所在は分からなくなった。戦乱のイラクで連絡先を捜し当てることなど不可能に思えた。
だが、信介は亡くなる前日、少年親子を日本の通信社の記者に引き合わせていた。それが細い糸となって連絡が取れたからには、夫の後を引き継がねば」妻はその後も走り続け、モハマド君の来日は実現し、手術は成功した。モハマド君の名を冠した基金には、いまも多くの人の善意が集まっている。
自衛隊の宿営地、サマワに建設されることになった孤児院にも、日本の篤志家団体と協力して支援を続けてきた。昨年十二月には予定地の地ならしが始まった。施設はシーア派の宗教者協会が設立母体で、二百五十人を収容することができ、七月に完成する予定だ。
「イラクには戦争で親を亡くし、身体が傷ついた子供たちが、まだまだたくさんいます。最終的には、ファルージャに子供病院を建てたい。まだまだ頑張ります」
夫の死に接した際の気丈な姿は、一部の人には「薄情な女」とも映った。だが、事件から一年八カ月近くたっても、寂しさが抑えられないことがある。
「夜中、部屋の明かりを消して布団にひっくるまるでしょう。一人で真っ暗闇の中にいると、涙がボロボロ出て止まらなくなるの。煙のようにこの地球上からいなくなったことを受け入れるのが、つらいわ。いつまでもこんなんで、困っちゃう」
噦気丈な妻噦はそういって、固く結んだ唇を震わせながら上を向いた。
(産経新聞)
世界の戦場を渡り歩いたジャーナリストの夫、信介=当時(六一)=が銃弾に頭を撃ちぬかれて命を奪われた″物証″だ。見る者に銃弾や戦争の恐ろしさを突きつけるが、妻はそこに、夫が生きたことの証しを見、ぬくもりを感じている。
二十八日午前六時二十分過ぎ、イラクに同行していた功太郎の家族から電話連絡を受けたあとは、息つく間もなかった。同日夕方の六時には、都内のホテルで記者会見に臨んだ。
「このたびは夫のことでお騒がせしまして、申し訳ありません」「夫も私も、覚悟はできていました」「ジャーナリストの大先輩として尊敬しています」矢継ぎ早になされる質問に、一つ一つ冷静に答えた。取り乱している暇はなかった。
生家の屋号から「こみかどのゆっこちゃん」と呼ばれた活発な少女は、昭和二十八年八月、静岡県清水町に生まれた。
父は国立大学の物理科を卒業した県立高校の数学の教師。一方の母も戦中、女学校で薙刀を教えていた。
両親から勉強しろといわれたことは一度もなかったという。ただ、「人さまに迷惑をかけるようなことを恥ずかしいと思う感覚、恥の精神は持っていました」。日本女子大文学部へ進み「文部省で働こう」と、漠然とした将来像も描いた。卒業論文のテーマは「フリースクール」。先進国の米国に研究にも行った。
だが、「なんだか、つまらない」と思いだした大学四年のとき、転機が訪れた。学園祭でベトナム戦争の実情を伝える展示会を企画し、写真の貸し出し依頼に出向いた日本電波ニュース社に、信介がいた。
「ひょろりと背が高く、日焼けした妙な人だわ」。これが第一印象。だが、ベトナムの戦地から戻ったばかりの信介の話は、面白かった。
志向はマスコミに変わり、大学卒業後はNHKに勤務。番組のリポーターを約二年やったが、「やっぱりつまらない」。
そんな時、信介がバンコクへ派遣されることになった。幸子は「面白そう」と同行を決めた。
「男と女の関係なんて、紙切れ一枚役所に出すか、出さないかのものではないはず、と思っていました」
結婚するつもりはなかったが、「橋田記者がバンコクの自宅に女性を連れ込んで暮らしている」と本社でうわさになっていることが分かり、入籍することにした。
以来、バンコクに通算十三年以上、ローマでも暮らした。夫はカンボジア内戦やビルマ動乱、アフガン戦争を現場から伝え続け、妻は時にパートナーとして取材に同行し、時に家で一人息子と、夫の無事を祈った。
夫に振り回され続けたようにも映るが、「信介さんとの人生は、次から次へ楽しいことばかり。本当に幸せでした。」
信介は取材の傍ら、イラク戦争で片目を負傷したファルージャの少年、モハマド君に日本で手術を受けさせようと奔走していた。だが、信介の死で少年の所在は分からなくなった。戦乱のイラクで連絡先を捜し当てることなど不可能に思えた。
だが、信介は亡くなる前日、少年親子を日本の通信社の記者に引き合わせていた。それが細い糸となって連絡が取れたからには、夫の後を引き継がねば」妻はその後も走り続け、モハマド君の来日は実現し、手術は成功した。モハマド君の名を冠した基金には、いまも多くの人の善意が集まっている。
自衛隊の宿営地、サマワに建設されることになった孤児院にも、日本の篤志家団体と協力して支援を続けてきた。昨年十二月には予定地の地ならしが始まった。施設はシーア派の宗教者協会が設立母体で、二百五十人を収容することができ、七月に完成する予定だ。
「イラクには戦争で親を亡くし、身体が傷ついた子供たちが、まだまだたくさんいます。最終的には、ファルージャに子供病院を建てたい。まだまだ頑張ります」
夫の死に接した際の気丈な姿は、一部の人には「薄情な女」とも映った。だが、事件から一年八カ月近くたっても、寂しさが抑えられないことがある。
「夜中、部屋の明かりを消して布団にひっくるまるでしょう。一人で真っ暗闇の中にいると、涙がボロボロ出て止まらなくなるの。煙のようにこの地球上からいなくなったことを受け入れるのが、つらいわ。いつまでもこんなんで、困っちゃう」
噦気丈な妻噦はそういって、固く結んだ唇を震わせながら上を向いた。
(産経新聞)
これは メッセージ 1044 (take_the_rag_away さん)への返信です.
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