イスラームの分派についての参考資料(10)
投稿者: nezu_nezukou 投稿日時: 2004/11/16 23:27 投稿番号: [2512 / 5091]
■ イマームの成立とイマームの流れ
シーア派はアリーを第一代イマームとします。この場合のイマームとは、礼拝の導師とは異なります。
語源で言う、導師を指すイマームは普通名詞であり、その対象が誰でもあってもかまいません。しかし、
シーア派的な意味でのイマームは、時代毎にイスラーム世界にただ一人だけとなります。その対象とな
る人物は預言者の後継者にあたりますが、カリフの場合と違って、預言者の知識を全て継承し、ある種
の神秘的機能も受け継いでいるとされます。
つまり、イマームとは、シーア派にとっては、精神的な意味においての全信徒の指導者であり、同時に
イスラーム国家の長たるべき人物であります。実際には、カリフ位に就いていた時期のアリーを除いて、
国家元首の位置には上がらなかったので、シーア派信条に従う全信徒の指導者と考えても良いでしょう。
このイマーム位がアリーの後、誰に継承されたと認めるか。三つの可能性がありました。アリーと妻フ
ァーティマ(ムハンマドの末娘)の二人の息子のうち、長子ハサンの子孫を担ぐか、次子フサインの子
孫に従うか。もう一つは、アリーと別な妻との子孫を指導者に掲げる道であります。
歴史的に見れば、第三の流れが多くの蜂起を行い、弾圧されました。ハサンの系統も始めは有力であり
ました。しかし、時の流れと共に、フサインの系統が主流となりました。この流れは、カルバラーの悲
劇のインパクトを考えれば、彼等にとっては、妥当なことなのかもしれません。
とはいえ、フサインの系統も一本ではありません。カルバラーの惨劇を生き延びたフサインの息子は、
病気で倒れていたザイヌル・アービディーンのみであります。しかし、その先は再び枝分かれし、ムハ
ンマド・アル=バーキル(第五代:七三五年没)とザイド(以後ザイド派)となり、ムハンマド・アル
=バーキルの後を継いだジャーファル・アッ=サーディク(第六代およびジャーファル法学派の祖:
七六五年没)からムーサー・アル=カーズィム(第七代:七九九年没)とイスマーイール(後にファー
ティマ朝、その後イスマーイール派)と分岐していきます。ムーサー・アル=カーズィムの後、アリー
・アッ=リダー(第八代:八一八年没)、次にムハンマド・アル=タキー(第九代:八三五年没)、次
にアリー・アル=ハーディー(第一〇代:八六八年没)と続いて行きますが、その次に続くに分岐が発
生し、ハサン・アル=アルカリー(第一一代:八七三年没)とジャーファルと分岐し、ハサン・アル=
アルカリーの後を、ムハンマド・アル=マフディ(第一二代:九四〇年大幽隠)と流れました。この流
れを、認める派を十二イマーム派といいます。
現代にも存在する(シーア派系のみの)派で説明すれば、一二人のイマームを認める十二イマーム派は、
最大の派であるといえます。これに対して、ザイド派とイスマーイール派と呼ばれるものがあります。
歴史的流れにおいては誤った表現で説明されているものに、五イマーム派、七イマーム派と呼ばれてい
ることがあります。これは、それぞれ、第五代イマームが誰か、第七代イマームが誰かをめぐって枝分
かれしたことからそう呼ばれていますが、これは誤った表現であります。
十二イマーム派は一二人だけをイマームとしますが、ザイド派とイスマーイール派ではイマームの人数
に設定はなく、人数に限りはありません。また、歴史上においては、ザイド派ではアラビア半島のイエ
メンにおいて一九六二年までイマームの統治が続いており、イスマーイール派では今日までインドにイ
マームの系統が保たれています。
今日ではシーア派とはこの三派のことでありますが、本章の冒頭で触れたシャフラスターニーの書には
二〇以上の分派・小分派が紹介されています。これらのことから、歴史の流れの中で、徐々に整理、統
合されていったことは明らかであります。現代では、その体系を人口で言えば、十二イマーム派が全シ
ーア派の八割程度を占めており、主流となっていますが、それも一六世紀の以降の発展によります。
シーア派はアリーを第一代イマームとします。この場合のイマームとは、礼拝の導師とは異なります。
語源で言う、導師を指すイマームは普通名詞であり、その対象が誰でもあってもかまいません。しかし、
シーア派的な意味でのイマームは、時代毎にイスラーム世界にただ一人だけとなります。その対象とな
る人物は預言者の後継者にあたりますが、カリフの場合と違って、預言者の知識を全て継承し、ある種
の神秘的機能も受け継いでいるとされます。
つまり、イマームとは、シーア派にとっては、精神的な意味においての全信徒の指導者であり、同時に
イスラーム国家の長たるべき人物であります。実際には、カリフ位に就いていた時期のアリーを除いて、
国家元首の位置には上がらなかったので、シーア派信条に従う全信徒の指導者と考えても良いでしょう。
このイマーム位がアリーの後、誰に継承されたと認めるか。三つの可能性がありました。アリーと妻フ
ァーティマ(ムハンマドの末娘)の二人の息子のうち、長子ハサンの子孫を担ぐか、次子フサインの子
孫に従うか。もう一つは、アリーと別な妻との子孫を指導者に掲げる道であります。
歴史的に見れば、第三の流れが多くの蜂起を行い、弾圧されました。ハサンの系統も始めは有力であり
ました。しかし、時の流れと共に、フサインの系統が主流となりました。この流れは、カルバラーの悲
劇のインパクトを考えれば、彼等にとっては、妥当なことなのかもしれません。
とはいえ、フサインの系統も一本ではありません。カルバラーの惨劇を生き延びたフサインの息子は、
病気で倒れていたザイヌル・アービディーンのみであります。しかし、その先は再び枝分かれし、ムハ
ンマド・アル=バーキル(第五代:七三五年没)とザイド(以後ザイド派)となり、ムハンマド・アル
=バーキルの後を継いだジャーファル・アッ=サーディク(第六代およびジャーファル法学派の祖:
七六五年没)からムーサー・アル=カーズィム(第七代:七九九年没)とイスマーイール(後にファー
ティマ朝、その後イスマーイール派)と分岐していきます。ムーサー・アル=カーズィムの後、アリー
・アッ=リダー(第八代:八一八年没)、次にムハンマド・アル=タキー(第九代:八三五年没)、次
にアリー・アル=ハーディー(第一〇代:八六八年没)と続いて行きますが、その次に続くに分岐が発
生し、ハサン・アル=アルカリー(第一一代:八七三年没)とジャーファルと分岐し、ハサン・アル=
アルカリーの後を、ムハンマド・アル=マフディ(第一二代:九四〇年大幽隠)と流れました。この流
れを、認める派を十二イマーム派といいます。
現代にも存在する(シーア派系のみの)派で説明すれば、一二人のイマームを認める十二イマーム派は、
最大の派であるといえます。これに対して、ザイド派とイスマーイール派と呼ばれるものがあります。
歴史的流れにおいては誤った表現で説明されているものに、五イマーム派、七イマーム派と呼ばれてい
ることがあります。これは、それぞれ、第五代イマームが誰か、第七代イマームが誰かをめぐって枝分
かれしたことからそう呼ばれていますが、これは誤った表現であります。
十二イマーム派は一二人だけをイマームとしますが、ザイド派とイスマーイール派ではイマームの人数
に設定はなく、人数に限りはありません。また、歴史上においては、ザイド派ではアラビア半島のイエ
メンにおいて一九六二年までイマームの統治が続いており、イスマーイール派では今日までインドにイ
マームの系統が保たれています。
今日ではシーア派とはこの三派のことでありますが、本章の冒頭で触れたシャフラスターニーの書には
二〇以上の分派・小分派が紹介されています。これらのことから、歴史の流れの中で、徐々に整理、統
合されていったことは明らかであります。現代では、その体系を人口で言えば、十二イマーム派が全シ
ーア派の八割程度を占めており、主流となっていますが、それも一六世紀の以降の発展によります。
これは メッセージ 2511 (nezu_nezukou さん)への返信です.
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