イラク戦争

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イスラームの分派についての参考資料(4)

投稿者: nezu_nezukou 投稿日時: 2004/11/13 13:56 投稿番号: [2211 / 5091]
■ アリーの党派

「シーア」という言葉は「党派」を意味します。アリーとムアーウィアが戦っている頃は、それぞれを
「アリーの党派」「ムアーウィアの党派」と呼びました。しかしアリーの死後は、ムアーウィアは王朝
の主となり、党派(シーア)といえばアリーの党派を指すようになりました。「シーア」と言う言葉は
そこから産まれました。

生前のアリーの信奉者は、まだ(この時は)分派を形成していません。あくまでも、優れた指導者に対
する個人的な愛着、支持の次元であります。そのうえアリーは正統カリフでありましたから、彼らは本
流でありました。アリーがハワーリジュ派に暗殺された後、彼らは長子ハサンに従うことになりました
が、彼はウマイヤ朝と戦う道を選びませんでした。

ハサンの死後は、弟のフサインが彼らを率います。ちなみにハサンとは「圭人」、フサインは「小さな
佳人」を意味します。兄弟にこのような名前のつけ方をすることは少なくありません。

アリーとムアーウィアを比べた場合、前者がイスラームの理想主義を体現し、後者が現実政治を体現し
ていたと見ることが出来ます。アリーは少年の頃からイスラームのために邁進した人物ではありますが、
ムアーウィアの父親アブー・スフヤーンは最後までムハンマドと対立した指導者でありました。総じて
彼らウマイヤ家の者たちは、イスラーム側にマッカを制圧されて、やむなくイスラームに加わったとい
う印象が強くなります。しかし、現実政治家としてのムアーウィアは、二〇年近く総督として統治する
間に、シリアを完全に手中に収めていました。それが最終的な勝因となりました。

ちなみに、ウマイヤ朝の支配は、イスラームの理想よりも部族的な血縁原理を利用し、アラブ優先策に
基づいて行われました。ウマイヤ朝が「アラブ帝国」で、次のアッパース朝になって「イスラーム帝国」
となったといわれるのはそのためであります。

とはいえ、ムアーウィアも教友の一人であり、彼自身は表立ってハンイスラーム的な態度は取らなかっ
た。問題は、晩年の彼が、一族支配を続けるために互選による長老政治の原則を破り、あらゆる策を弄
して、自分の子ヤジードを次のカリフ位に就けたところにあります。

ヤジードは統治者となるような資格・能力を具えた人物ではありませんでした。それどころか、酒を人
前で飲み、音曲に耽溺して、イスラーム的価値を公然と否定した人物として知られています。

イスラーム以前には、ありふれ放蕩児の類と理解すべきかもしれないが、少なくともイスラーム国家の
長になる資格はないでありましょう。実際にウマイヤ朝を肯定する歴史書すらヤジードの悪徳が並べら
れているのでありますから、実態は推して知るべしでありましょう。

アリーの次子フサインは、ムアーウィアが生きている間は、兄ハサンと同様に宥和的な平和路線を取り
ました。ハサンがムアーウィアに与えた恭順の約束を尊重したからであります。しかし、ヤジードに対
しては敢然と立ち上がりました。それまでマッカで暮らしていた彼は、「不正の王朝」と戦うため、小
人数の支持者を引き連れて、支持者の待つクーファに向かったのであります。

ところが、ヤジードの派遣した軍隊が途中、彼らをカルバラーの地で包囲し、殲滅してしまいます。
それが、所謂、カルバラーの悲劇(六八〇年)であります。
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