「南京事件」判決(東京篇)(起訴状)
投稿者: cardockjp 投稿日時: 2004/07/20 14:31 投稿番号: [220229 / 280993]
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=552019567&tid=a5a4a5ia5afa4gffckdcbfm94bab&sid=552019567&mid=218696
「218696」の続きです。
南京の法廷では、谷寿夫中将が、戦時国際法に違反する通例の戦争犯罪である「B級戦争犯罪人」として裁かれた。
対して東京の法廷では、南京攻撃軍の総司令官であった松井石根大将が、南京大虐殺の総責任者として裁かれ、その罪状にはB級戦争犯罪だけで無く、東条英機首相らと同様に「平和に対する罪」である A級戦争犯罪も含まれている。
極東軍事裁判法廷判決文:
起訴状(昭和23年(1948年)11月11日朗読)
1937年12月の初め、松井の指揮する中支派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全区を組織する為に残留した少数の者を除いた中立国人全部とは、この市から避難した。
中国軍はこの市を防衛する為に、約5万の兵を残して撤退した。(中略)
中国兵の殆ど全部は市を撤退するか、武器と弾薬を捨てて国際安全地帯に避難したので、1937年12月13日の朝、日本軍が市に入った時には抵抗は一切無くなっていた。
日本軍は市内に群がり様々な残虐行為を犯した。
兵隊は個々に又は2,3人の小さい集団で全市内を歩き廻り、殺人、強姦、略奪、放火を行った。
其処には何の規律も無かった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実も無いのに、中国人の男女子供を無差別に殺し乍ら兵は街を歩き廻り、大通りや裏通りに被害者の死体が散乱した。(中略)
これらの無差別殺人に因って、日本側が市を占領した最初の2,3日の間に少なくとも1万3千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。
多数の婦女は強姦された後に殺され、その死体は切断された。
占領後の1ヶ月の間に約2万人の強姦事件が市内に発生した。
日本兵は店舗や倉庫を略奪した後、これらに放火した事が度々あった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一画一画と相次いで焼き払われた。(中略)
この様な放火は、数日後になると一貫した計画に従っている様に思われ、6週間も続いた。こうして全市の3分の1が破壊された。
男子の一般人に対する大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に紛れ込んで居ると言う口実で、指揮官の許可と思われる物に因って行われた。(中略)
兵役年齢にあった中国人男子2万人はこうして死んだ事が判っている。
城外の人々は、城内の者よりややましであった。
南京から二百中国里(約105キロ)以内の全ての部落は大体同じ様な状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして田舎に逃れていた。所々で彼等は避難民部落を組織した。(中略)
日本側は避難民に対して、南京の住民に加えたと同じ様な仕打ちをした。南京から避難していた一般人の内で5万7千人以上が追いつかれて収容された。収容中に彼等は飢餓と拷問に遇って遂には多数の者が死亡した。生き残った者の内の多くは、機関銃と銃剣で殺された。
中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏したが、72時間の内に揚子江の江岸で機関銃掃射に因って集団的に射殺された。この様にして、右の様な捕虜3万人以上が殺された。(中略)
捕虜に就いて裁判の真似事さえ行われなかった。
後日の見積もりに因れば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であった事が示されている。
これらの見積もりが誇張で無い事は、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実に因って証明されている。(中略)
これらの数字は日本軍に因って死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げ込まれたり、又はその他の方法で処分された人々を計算に入れていないのである。
強姦、放火、及び殺人は南京が攻略されてから少なくとも6週間、そして松井(松井石根大将)と武藤(武藤中支那方面軍参謀副長)が入城してから少なくとも4週間に渡って、引き続き大規模に行われたのである。
残虐行為に就いての新聞報道は各地に広まった。(中略)
この様な不利な報道や、全世界の諸国で巻き起こされた世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約80名を召還したが、彼等を処罰する措置は何も取らなかった。
以下、
「南京事件」判決(東京篇)(判決篇)に続く。
「218696」の続きです。
南京の法廷では、谷寿夫中将が、戦時国際法に違反する通例の戦争犯罪である「B級戦争犯罪人」として裁かれた。
対して東京の法廷では、南京攻撃軍の総司令官であった松井石根大将が、南京大虐殺の総責任者として裁かれ、その罪状にはB級戦争犯罪だけで無く、東条英機首相らと同様に「平和に対する罪」である A級戦争犯罪も含まれている。
極東軍事裁判法廷判決文:
起訴状(昭和23年(1948年)11月11日朗読)
1937年12月の初め、松井の指揮する中支派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全区を組織する為に残留した少数の者を除いた中立国人全部とは、この市から避難した。
中国軍はこの市を防衛する為に、約5万の兵を残して撤退した。(中略)
中国兵の殆ど全部は市を撤退するか、武器と弾薬を捨てて国際安全地帯に避難したので、1937年12月13日の朝、日本軍が市に入った時には抵抗は一切無くなっていた。
日本軍は市内に群がり様々な残虐行為を犯した。
兵隊は個々に又は2,3人の小さい集団で全市内を歩き廻り、殺人、強姦、略奪、放火を行った。
其処には何の規律も無かった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実も無いのに、中国人の男女子供を無差別に殺し乍ら兵は街を歩き廻り、大通りや裏通りに被害者の死体が散乱した。(中略)
これらの無差別殺人に因って、日本側が市を占領した最初の2,3日の間に少なくとも1万3千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
幼い少女と老女さえも、全市で多数強姦された。そしてこれらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。
多数の婦女は強姦された後に殺され、その死体は切断された。
占領後の1ヶ月の間に約2万人の強姦事件が市内に発生した。
日本兵は店舗や倉庫を略奪した後、これらに放火した事が度々あった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一画一画と相次いで焼き払われた。(中略)
この様な放火は、数日後になると一貫した計画に従っている様に思われ、6週間も続いた。こうして全市の3分の1が破壊された。
男子の一般人に対する大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に紛れ込んで居ると言う口実で、指揮官の許可と思われる物に因って行われた。(中略)
兵役年齢にあった中国人男子2万人はこうして死んだ事が判っている。
城外の人々は、城内の者よりややましであった。
南京から二百中国里(約105キロ)以内の全ての部落は大体同じ様な状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして田舎に逃れていた。所々で彼等は避難民部落を組織した。(中略)
日本側は避難民に対して、南京の住民に加えたと同じ様な仕打ちをした。南京から避難していた一般人の内で5万7千人以上が追いつかれて収容された。収容中に彼等は飢餓と拷問に遇って遂には多数の者が死亡した。生き残った者の内の多くは、機関銃と銃剣で殺された。
中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏したが、72時間の内に揚子江の江岸で機関銃掃射に因って集団的に射殺された。この様にして、右の様な捕虜3万人以上が殺された。(中略)
捕虜に就いて裁判の真似事さえ行われなかった。
後日の見積もりに因れば、日本軍が占領してから最初の6週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であった事が示されている。
これらの見積もりが誇張で無い事は、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実に因って証明されている。(中略)
これらの数字は日本軍に因って死体を焼き捨てられたり、揚子江に投げ込まれたり、又はその他の方法で処分された人々を計算に入れていないのである。
強姦、放火、及び殺人は南京が攻略されてから少なくとも6週間、そして松井(松井石根大将)と武藤(武藤中支那方面軍参謀副長)が入城してから少なくとも4週間に渡って、引き続き大規模に行われたのである。
残虐行為に就いての新聞報道は各地に広まった。(中略)
この様な不利な報道や、全世界の諸国で巻き起こされた世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約80名を召還したが、彼等を処罰する措置は何も取らなかった。
以下、
「南京事件」判決(東京篇)(判決篇)に続く。
これは メッセージ 218696 (cardockjp さん)への返信です.
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