イラクで日本人拘束

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「南京事件」判決(南京篇)

投稿者: cardockjp 投稿日時: 2004/07/17 17:48 投稿番号: [218696 / 280993]
南京事件は1954年10月に南京地方法院検察処により、
「大虐殺」を調査する為の「南京敵人罪行調査委員会」が設置され、
(国民党機関、警察、医師会、弁護士会、慈善団体の紅卍会等、14の機関が参加)
分担に因る聞き取りや資料収集が行われ、
1946年2月、「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」が纏められた。
この後、南京では1947年2月より裁判が始まり3月には判決が出た。
東京では1946年の7月から審判が開始され、1948年11月に判決が出た。

南京の判決文:
(国防部審判戦犯軍事法廷ー南京大虐殺日本人首謀戦争犯罪任谷寿夫死刑判決書)

主文:
谷寿夫は作戦期間中、共同して兵士にほしいままの行為を許し、捕虜と非戦闘員を虐殺させ、強姦、略奪、財産損壊をなさしめた。死刑にする。
事実:
(前略)日本軍閥は我が首都(南京)を抗戦の中心とみなし、精鋭で凶暴且つ残忍な第六師団谷寿夫部隊、第十六師団中島部隊、第十八師団牛島部隊、第百十四師団末松部隊等を集結させ、松井石根大将の指揮下に共同して攻撃を加えた。
そして我が軍の頑強な抵抗に遭遇してこれに怒りを覚え、陥落後に計画的な虐殺を行い報復した。
谷寿夫の率いる第六師団は先鋒として民国26年(1937年)12月12日夕刻に中華門を攻め落とし、先鋒部隊は縄梯子で城壁を登って進入し虐殺を開始した。
翌朝には再度大群を率いて進入し、中島、牛島、末松等の部隊と共に市内各所入り込み大規模な虐殺を展開し、続いて放火、強姦、略奪を行った。
虐殺の最も激しかった時期は(民国)26年12月12日から同月21日迄であり、これは谷寿夫の部隊が南京に駐屯していた時期でもある。
(中略)被害者の総数は30万人以上に達した。
死体は地を覆い、悲惨はその極に達し、状況は筆舌に尽くし難い。
民間人への被害の実情:
民国26年(1937年)12月16、17両日、我が婦女の日本軍に蹂躙される者はすでに1000人を越え、その方法の奇怪で残虐である事も歴史上に例を見ない。
例えば12月13日に婦人の陶湯氏が中華門東仁厚里五号で日本軍に強姦された後腹を割かれ焼き殺された。
(中略)同月13日から17日にかけ、日本軍は中華門外に於いて少女を輪姦した後、通りかかった僧侶にも(同行為を)強要した。僧侶が拒否すると宮刑(性器を切断する刑罰)に処して死に至らしめた。
南京市内での火災の発生:
12月20日にいたって再び南京全市を計画的に焼き払う暴行を開始し、市の中心地区の太平路は火災に包まれ夜に至っても鎮火せず、全ての消防設備は悉く奪われ、市民で救援に駆けつけた者は殺し尽くされ一人も許されなかった。

判決理由:
被害者総数三十余万人と云う事実は、自らこの状況を経験した証人である1250人余りの人々のみならず、当時、遺体埋葬を取り仕切った許伝音、周一漁らの証明する所である。
(中略)紅卍会(中国の赤十字)による死体埋葬数は、43711体であり、崇善堂に因る死体埋葬数112266人の統計表や、偽南京督弁(南京市政責任者)の記した霊谷寺の無縁仏3000余りの碑文も証拠となる。
さらに本法廷に因り行われた中華門外の雨花台や万人杭(大量の死体を埋葬する為の穴)の地点での発掘に因り出現した被害者数千人を、法医学者が検査した結果、遺骨の多くに刀や銃や鈍器に因る傷痕があった。
証拠資料:
外国人記者ティンパーリーの著した「日軍暴行紀実」、スマイスの「南京戦禍写真」、さらに南京攻防戦に参加した我軍の営長が著した「陥都血涙録」があり、これらの各部分の記述は悉く一致する。又、当時の南京に止ったアメリカ人教授のベイツやスマイすは目撃した実情に基づき本法廷で宣誓署名して事実である事を証言した。

弁護側反論:
1)谷寿夫指揮の部隊は12月21日には南京を去り、虐殺の責任は中島、末松さらにその他の部隊にある。
2)被告の部隊は軍規厳正であり、一人の殺害も行わなかった。
3)本事件の証拠は全て捏造であり、根拠とするには足りない。

以下、東京篇に続く。
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