Re: 新華僑(ちょっと真面目に)
投稿者: isamu309 投稿日時: 2007/11/21 18:06 投稿番号: [63617 / 66577]
コバさん、ひとつだけ言っておきたいのですが、私は日本語脳を何か特別で高尚なものとして考えていない、と言うことはご理解ください。
日本語は、言語学的には世界的に見ても孤児に等しく、また日本人は日本語脳を持ってしまうが故に、欧米やその他の言語圏との常識に対する認識を共有できないと言う弊害を持っています。
> 昔にいう「ヤマトのことの葉」と言うのは、今の日本語とまるきり違うんだよね?例えば『万葉集』にいろいろあるけど、今でも意味の解明できない枕詞があるでしょ?それらのコトバを君の「日本語脳」一つでも解説できるか????<
平安時代の枕詞が現代で通用するかどうかは基本的に問題ではありません。子音+母音で一音を形成し、それを連続させることで単語を成立させるコミュニケーションの体系そのものが日本語の特徴である、と指摘しているのですから単語そのものの意味自体には重要性は無いのではないですか?
むしろ万葉集に出てくる表記が日本語の発音原則に従っていることの方が重要だと思いますが。
ちなみに万葉集の時代の日本語と現代の日本語を直接比較することにはあまり意味があるとは思えません。なぜなら言語とはある種の生き物のように進化(或いは退化)するものですから、平安時代から今日までに捨て去られたり作り出されたものは多数存在します(例えば『ゑ』とか『ヰ』とか)し、単語そのものも作り出されたり、消えていったりしている訳ですから。
実際、あなた自身が万葉集に未だに意味不明な枕詞がある、と言っていますが、そんなことは当たり前でしょう。
現代日本語の疎型が成立した時期に就いては、私は専門家では無いので正直判りかねます。が、恐らく現代人が理解できるような形に確立されたのは比較的最近の事なのではないでしょうか。
いずれにしても日本語というのは、他の言語とは恐ろしく異なった感性を育て上げます。
俳句に言及されていますが、もともと俳句は575と言う極限まで制限された日本語の音韻数を原則として、自身の心に写った情景や心情を表現することを文学として昇華させたものです。
俳句という文学が海外に紹介され、その極限まで研ぎ澄まされた感性と美しさに共感し、英語による俳句が可能かどうか研究し、最近では愛好される方たちが存在することは知っています。
ただもともと英語圏などでも韻を踏む言葉遊びは存在していましたが、それから単語を極限まで殺ぎ落とし、自身の心情や情景を表現する文学は生まれてきませんでしたよね?
俳句を理解することは出来ても、生み出すことは出来なかったということでは無いですか?
また英語の俳句というもに対する理解とは、それぞれの国で普遍的でしょうか?(紅前置きしなければいけないことは嘆かわしいことですが、)親の愛情を受け、真面目に国語の授業を受けて育った日本人であれば、大多数は俳句の持つ美しさや表現に素直に感動します。
ここが海外の俳句愛好家(教養人であること)と、一般的な日本人の最大の差です。
俳句とは、極めて日本的なもののひとつでしょう。余計な言葉を極限まで廃し、自身の心情や情景を描写する。わび・さびの世界と合い通じるものです。
わび・さびも日本独特の死生観から発生しているのですが、それがコバさんには理解できますか?
ちなみに日本には、すでに17世紀には既に世界でも屈指の人口を誇る町は存在しましたが都市は存在しませんでした。この意味が判りますか?
この意味が判らないのであれば、貴方が学んだ日本の古典は、やはり日本人の表層しか見ていなかった、と言うことでしょうね。
日本語は、言語学的には世界的に見ても孤児に等しく、また日本人は日本語脳を持ってしまうが故に、欧米やその他の言語圏との常識に対する認識を共有できないと言う弊害を持っています。
> 昔にいう「ヤマトのことの葉」と言うのは、今の日本語とまるきり違うんだよね?例えば『万葉集』にいろいろあるけど、今でも意味の解明できない枕詞があるでしょ?それらのコトバを君の「日本語脳」一つでも解説できるか????<
平安時代の枕詞が現代で通用するかどうかは基本的に問題ではありません。子音+母音で一音を形成し、それを連続させることで単語を成立させるコミュニケーションの体系そのものが日本語の特徴である、と指摘しているのですから単語そのものの意味自体には重要性は無いのではないですか?
むしろ万葉集に出てくる表記が日本語の発音原則に従っていることの方が重要だと思いますが。
ちなみに万葉集の時代の日本語と現代の日本語を直接比較することにはあまり意味があるとは思えません。なぜなら言語とはある種の生き物のように進化(或いは退化)するものですから、平安時代から今日までに捨て去られたり作り出されたものは多数存在します(例えば『ゑ』とか『ヰ』とか)し、単語そのものも作り出されたり、消えていったりしている訳ですから。
実際、あなた自身が万葉集に未だに意味不明な枕詞がある、と言っていますが、そんなことは当たり前でしょう。
現代日本語の疎型が成立した時期に就いては、私は専門家では無いので正直判りかねます。が、恐らく現代人が理解できるような形に確立されたのは比較的最近の事なのではないでしょうか。
いずれにしても日本語というのは、他の言語とは恐ろしく異なった感性を育て上げます。
俳句に言及されていますが、もともと俳句は575と言う極限まで制限された日本語の音韻数を原則として、自身の心に写った情景や心情を表現することを文学として昇華させたものです。
俳句という文学が海外に紹介され、その極限まで研ぎ澄まされた感性と美しさに共感し、英語による俳句が可能かどうか研究し、最近では愛好される方たちが存在することは知っています。
ただもともと英語圏などでも韻を踏む言葉遊びは存在していましたが、それから単語を極限まで殺ぎ落とし、自身の心情や情景を表現する文学は生まれてきませんでしたよね?
俳句を理解することは出来ても、生み出すことは出来なかったということでは無いですか?
また英語の俳句というもに対する理解とは、それぞれの国で普遍的でしょうか?(紅前置きしなければいけないことは嘆かわしいことですが、)親の愛情を受け、真面目に国語の授業を受けて育った日本人であれば、大多数は俳句の持つ美しさや表現に素直に感動します。
ここが海外の俳句愛好家(教養人であること)と、一般的な日本人の最大の差です。
俳句とは、極めて日本的なもののひとつでしょう。余計な言葉を極限まで廃し、自身の心情や情景を描写する。わび・さびの世界と合い通じるものです。
わび・さびも日本独特の死生観から発生しているのですが、それがコバさんには理解できますか?
ちなみに日本には、すでに17世紀には既に世界でも屈指の人口を誇る町は存在しましたが都市は存在しませんでした。この意味が判りますか?
この意味が判らないのであれば、貴方が学んだ日本の古典は、やはり日本人の表層しか見ていなかった、と言うことでしょうね。
これは メッセージ 63612 (cobapics0506z さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019566/cf9q_1/63617.html