Re: 靖国参拝(cobapics0506z)追加2
投稿者: nao759kyon 投稿日時: 2006/08/18 01:15 投稿番号: [58604 / 66577]
図書館で、遠藤哲夫の本を見た。
さすが、嘘つきのcobapics0506z。
この文でcobapics0506zの最大の主張は、これが「隔対」であると言う説。(No.56922 )
それもわざわざ、易経の文を捏造までして、主張した大事な説(No.57003 )
ところが、遠藤の本を見ても、どこにも「隔対」だと言う指摘はない。
自説が崩れ去っていることを、正直に書いていない。
やはり恥ずかしくて、書けなかったのか(真の理由は自分がよく自分が知ってるはず)。
結局、自分の「隔対」説、cobapics0506zの最大の主張は、まったく崩れ去って、残ったのはcobapics0506zの、大恥だけ。
戦国時代の思想家孟軻(孟子)と、「春秋左伝」に出てくる女性の「孟子」(姓は「子」、子さんの家の長女と言う意味)を混同したのと、まったく同じケースである(笑い)
バカの一つ覚えの「隔対」を出して、逆に恥をかいた、知ったかぶりの見本。
バカは哀れだね(爆笑)。
さて、次に「身」について。これもcobapics0506zは、ごまかしをしている。
確かに、遠藤は『「身」は、生きてこの世にあることを云う。』と言う注をしている。
しかし遠藤は、実際の翻訳では「聖王が在世の時、あるいは世の中がよく治まった時代にあっては、」と訳してる。
「身」の注釈と、実際の現代語訳が矛盾していることを、読み取っていない。
この部分は、誰が考えても同じことであるが、「時」と「身」が、どう考えてもうまく整合的に対偶を構成しないのである。
だから結局、遠藤は苦肉の策として、註釈の語釈と、実際の翻訳が違えたままで終わっている。
遠藤も結局、本当はよくわからなかったと言うこと。
この辺の難しさは、今まで私が挙げた李勉註氏(『管子今注今訳』)、顔昌曉氏(『管子校釈』)、謝浩範氏(『管子全訳』))などの中国人の注釈者も同じことを感じていたはず。
「聖王之身」では、どうしても「治世之時」と、概念的に対偶にならない。
だから結局、「治世」を「動詞+名詞」と解釈して、主語を「聖王」と考えざるを得なかったということだろう。
だから、この二句を顔昌曉氏は「言聖王治世」と簡潔にまとめている。
李勉註氏は、「聖王本身、治理天下時」と現代語訳している。
「本身」と言うのは、「親自」とほぼ同じ意味。副詞的な解釈である。
この辺に、中国の学者の苦労が読み取れる。
したがって中国の学者は、論理的に自動的に「治世」も、「治理天下時」と言う現代語訳になっているのである。
やはり、日本の右翼学者の弟子の、浅はかな解釈とは、思慮の深さが違うのである。
「道義」については、最初から私の主張どおり。名詞の「道義」と言う意味で何も問題がなかった。
一応、「身」の字の副詞的解釈の理由、その解釈例、最後にその解釈の優位性を述べた。
最初の問題は、「道義」をどう考えるかと言う問題だった。
それが、ここまで広がったが、結局どこにも、cobapics0506zの最大の主張「隔対」だと言う説を支持するような形跡はどの注釈者からも伺えなかった(笑い)
改めてcobapics0506zの真性のバカさを、証明するだけになった(爆笑)。
>>おっとそれから、「朱子語類」に朱子先生が、戦国時代の思想家孟軻(孟子)を、「孟者」と言った例があると言ってたが、あれはいつ出てくるのかな。<
>俺は一度もそんなに具体的な出処を言ったことがない。それはお前が曲解を加えた上での要求です。受付しませんよ。
あれ、あれだけ自慢げに出した「朱子語類」の多数の例は、結局全部引っ込めるの?
バカは哀れだね。
それで結局、中国人の書いた古文の中に、戦国思想家孟「孟軻」(孟子)を、「孟者」とした例は、一つも出せなかったんだね。
おっと、なんか
>宋明時代の儒学者の著作にあると思います。(うそを言う必要はないが、僕も今もう一度探しています。(No.56962 )
掲示板に書けば、世界に宣言したのと同じ。
こそこそ逃げないで、早く出して。
皆見てるからね。
出せなければ、逃げた卑怯者と言うことになるよ。
やはり実は、世間体を取り繕うためのウソだったと言うことかな。
バカは、かわいそうだな(笑い)。
さすが、嘘つきのcobapics0506z。
この文でcobapics0506zの最大の主張は、これが「隔対」であると言う説。(No.56922 )
それもわざわざ、易経の文を捏造までして、主張した大事な説(No.57003 )
ところが、遠藤の本を見ても、どこにも「隔対」だと言う指摘はない。
自説が崩れ去っていることを、正直に書いていない。
やはり恥ずかしくて、書けなかったのか(真の理由は自分がよく自分が知ってるはず)。
結局、自分の「隔対」説、cobapics0506zの最大の主張は、まったく崩れ去って、残ったのはcobapics0506zの、大恥だけ。
戦国時代の思想家孟軻(孟子)と、「春秋左伝」に出てくる女性の「孟子」(姓は「子」、子さんの家の長女と言う意味)を混同したのと、まったく同じケースである(笑い)
バカの一つ覚えの「隔対」を出して、逆に恥をかいた、知ったかぶりの見本。
バカは哀れだね(爆笑)。
さて、次に「身」について。これもcobapics0506zは、ごまかしをしている。
確かに、遠藤は『「身」は、生きてこの世にあることを云う。』と言う注をしている。
しかし遠藤は、実際の翻訳では「聖王が在世の時、あるいは世の中がよく治まった時代にあっては、」と訳してる。
「身」の注釈と、実際の現代語訳が矛盾していることを、読み取っていない。
この部分は、誰が考えても同じことであるが、「時」と「身」が、どう考えてもうまく整合的に対偶を構成しないのである。
だから結局、遠藤は苦肉の策として、註釈の語釈と、実際の翻訳が違えたままで終わっている。
遠藤も結局、本当はよくわからなかったと言うこと。
この辺の難しさは、今まで私が挙げた李勉註氏(『管子今注今訳』)、顔昌曉氏(『管子校釈』)、謝浩範氏(『管子全訳』))などの中国人の注釈者も同じことを感じていたはず。
「聖王之身」では、どうしても「治世之時」と、概念的に対偶にならない。
だから結局、「治世」を「動詞+名詞」と解釈して、主語を「聖王」と考えざるを得なかったということだろう。
だから、この二句を顔昌曉氏は「言聖王治世」と簡潔にまとめている。
李勉註氏は、「聖王本身、治理天下時」と現代語訳している。
「本身」と言うのは、「親自」とほぼ同じ意味。副詞的な解釈である。
この辺に、中国の学者の苦労が読み取れる。
したがって中国の学者は、論理的に自動的に「治世」も、「治理天下時」と言う現代語訳になっているのである。
やはり、日本の右翼学者の弟子の、浅はかな解釈とは、思慮の深さが違うのである。
「道義」については、最初から私の主張どおり。名詞の「道義」と言う意味で何も問題がなかった。
一応、「身」の字の副詞的解釈の理由、その解釈例、最後にその解釈の優位性を述べた。
最初の問題は、「道義」をどう考えるかと言う問題だった。
それが、ここまで広がったが、結局どこにも、cobapics0506zの最大の主張「隔対」だと言う説を支持するような形跡はどの注釈者からも伺えなかった(笑い)
改めてcobapics0506zの真性のバカさを、証明するだけになった(爆笑)。
>>おっとそれから、「朱子語類」に朱子先生が、戦国時代の思想家孟軻(孟子)を、「孟者」と言った例があると言ってたが、あれはいつ出てくるのかな。<
>俺は一度もそんなに具体的な出処を言ったことがない。それはお前が曲解を加えた上での要求です。受付しませんよ。
あれ、あれだけ自慢げに出した「朱子語類」の多数の例は、結局全部引っ込めるの?
バカは哀れだね。
それで結局、中国人の書いた古文の中に、戦国思想家孟「孟軻」(孟子)を、「孟者」とした例は、一つも出せなかったんだね。
おっと、なんか
>宋明時代の儒学者の著作にあると思います。(うそを言う必要はないが、僕も今もう一度探しています。(No.56962 )
掲示板に書けば、世界に宣言したのと同じ。
こそこそ逃げないで、早く出して。
皆見てるからね。
出せなければ、逃げた卑怯者と言うことになるよ。
やはり実は、世間体を取り繕うためのウソだったと言うことかな。
バカは、かわいそうだな(笑い)。
これは メッセージ 58577 (cobapics0506z さん)への返信です.
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