Re:、隔対:Nao氏 治世 横
投稿者: kitaguninosaru1 投稿日時: 2006/07/18 16:35 投稿番号: [57040 / 66577]
先般の件、ご趣旨了解しました。
>言聖王治世、徳行道義必折衷於一、是使人共由以一天下之道徳、而・・・(『管子校釈』:顔昌曉)
↑
仰る通り、これは最も原文を纏めていると思います。
ただし、
>聖王本身、治理天下時、徳行必定有其標準、道義必定有其彰明、・・・(『管子今注今訳』:李勉註)
↑
「治世之時」を「治理天下時」と読んだのは間違いと言えよう。
「治世」は「うまく治められた世」という意味で理解されるべきでしょう。
貴殿も認めると思うが、「治理天下」は「治理国家」のことでしょう。
では、何故これを「治国」と言わずに、「治世」と言うのでしょうか?
因みに「管子」には「治国篇」はありますが、「治世篇」はありません。
また、ほぼ同じ時代の孔子も老子も荀子も「うまく治められた世」として「治世」を使っています。
対する言葉は「乱世」です。
孔子:「治世の音・・・乱世の音・・・」
荀子:「義勝利者為治世、利克義者為乱世」
老子:「子之不遇治世之君也」(孔子に対して言った言葉)
老子が使った「治世」は多少微妙ではあるが、「国家を治理」する「君」ならいくらでもいたはずなので、やっぱり「治世を君臨した君王」はいなかったと理解した方がより自然でしょう。
孔子が波乱の時代を生きたのも事実ですし。
>聖王之身、治世之時
⇒
聖王治世
徳行必有所是、道義必有所明
⇒
徳行道義必折衷於一
>前半などは、聖王(主語)+治・世(動詞・目的語)にまとめてる
↑
「聖王治世」にある「聖王」と「治世」は同格です。
「治」は動詞ではありません。
「徳行必有所是、道義必有所明」は「聖王」・「治世」といった条件が揃う時に必ず出る現象なのだと読まれてもいいかと思います。
よって、主語は「聖王」ではなく、「徳行・道義」であるとも解釈可能でしょう。
日本語に直すと
「聖王が治世を君臨する場合、必ずや「徳行・道義」は基準によって明確にされている」
ではないでしょうか?
ご参考まで。。。
これは メッセージ 57035 (nao759kyon さん)への返信です.
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