Re: 止戈為武panda168jp氏
投稿者: panda168jp 投稿日時: 2006/07/12 11:05 投稿番号: [56858 / 66577]
No.56087
>「道義」・・『易』繋辞上、「成性存存、道義之門」
『管子』法禁、「道義必有所明」
『漢語大詞典』には、①道徳義理・・・⑤道徳正義、などと書いてある。
「道義」は、二字の熟語、道徳・正義などの意味。
「道義」を、「義を語る」と解釈するのは、不自然。
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上記の『管子』法禁、「道義必有所明」の道義は道・義のことだよ。
>義を語る(道)、などと言う例は、古文はもちろん、現代文に至るまで、まだ誰もその例を出していない。
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道と義はそれぞれの固有名詞的な意味をもって、古文においては、当然、【「道義」を、「義を語る」と解釈するのは、不自然。】だよ。
貴方の解釈での「道義」という二字の熟語は、現代的な使い方に過ぎない。
言葉は時代の変化に連れて変化し、「道が語るの意味へも」と。
現代用語では、普段でも使うが、
非与他(厳粛)道理、道理不可。
↓
どうしても、(厳重に)彼と筋道を語らなければいけません。
同じ気持ちでも、義を語る(道義)との表現もできる。
我々の感じでは、TWP氏のいい方にはどこも可笑しくないが。
なのにね。
中国では孔子のことを孔聖人とも呼ぶ。
前前レスHPの「内聖」は孔、孟者のことも指していると思われる。
また、「内聖」を追求する孔子、孟子の生徒((崇)孔、孟者)と言う表現もあった。
何れにせよ、「孟者」が「孟子」を指すか指すまいかとは関係なくて
固定名詞として使われてきた限り、
「孟者」って誰のことであろうという疑問を発することができる。
可笑しいことでもなんでもない。
これは メッセージ 56849 (nao759kyon さん)への返信です.
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