改めて権威主義
投稿者: tokagenoheso 投稿日時: 2006/05/27 11:36 投稿番号: [55549 / 66577]
プーハオ氏のすり替え、嘘つき問題は当人が逃げ出した事で、応援に駆けつけた連中は二階に上がったところをプーハオ君に梯子を外されてしまい、猿君など必死で降り口を捜している。
で、新たな梯子をかけてやることになるかも知れないが、あたしが嘘つき問題をすり替えたのではなく、プーハオ君が嘘つき問題を権威主義にすり替えようとしたのであり、そして今猿もそのすり替えはしごにすがって上ってしまった二階から降りようとしているらしい。
閑話休題。
元々は正義の定義が出来るかどうかだが、くり返したように、正義とはある文化、時代に属する集団の漠然とした合意に過ぎず、最大公約数を例えば法律、社会習慣、常識という形で表しているだけだ。当然ながら、文化が変わり時代が変われば正義の基準も変わるのであり、人類共通不変の正義などあり得ない。
哲学や宗教でも正義はテーマとなりうるが、もともと哲学、宗教が正義を解明する為に存在する。正義が変われば哲学、宗教もそれに連れて変わる。絶対の正義がないから、絶対の哲学も宗教もあり得ない。
このような正義の定義を限られた範囲の哲学や宗教などで得ようなど出来るはずがないし無意味な行為だ。したがって、コバ君がイェーリングを持ち出した時点で無意味な行為に取り憑かれたことを意味する。あくまで学術的な探求にしか意味はない。
誰にでも正義の定義はあるだろうが、それはあくまで自分が自分の属する社会の合意(常識、法律、習慣)と自分自身の価値観で判断するしかない。それが社会人に求められる条件と言っていい。一々古典をひもといて自分の正義の基準を探すこと自体がナンセンスであり、正義の基準を神に求める原理主義者と変わらない。
コバ君がそのような行為をとらざるを得ず、コンビニサンドとウーロン茶持参で図書館に半日こもったのもいわば中共原理主義者の習性のなせるわざであろう。
一方、中国文明が孤立しているかどうかは漠然とした合意などではなく、唯一の結論を見いだしうる事象だ。従って、哲学や宗教ではなく、科学が取り扱う分野となる。当然、過去にどのような研究がなされ、どのような説があるのかを探ることにより、自分の知識を固めることになる。その過程で未だ唯一の結論に達していない事象であれば複数の仮説が提議されていることになる。
科学的結論が時代の経過により変わるなど幾らでもある。だから、数多い仮説のうち、自分が一番納得する説を採用するなど当たり前であり、問題にならないと吐き捨てるコバ君は、結局中共の言うこと以外採用してはならぬというすり込み教育のなせる犠牲者の一人なのであろう。犠牲猿は問題外だが。
社会的合意を自分の価値観で判断すべき事を権威にすがる
科学知識を根拠を基に高める
この二者は全く別の行為である。プーハオ君の根本的な間違いはこの両者を混同していることにある。
で、新たな梯子をかけてやることになるかも知れないが、あたしが嘘つき問題をすり替えたのではなく、プーハオ君が嘘つき問題を権威主義にすり替えようとしたのであり、そして今猿もそのすり替えはしごにすがって上ってしまった二階から降りようとしているらしい。
閑話休題。
元々は正義の定義が出来るかどうかだが、くり返したように、正義とはある文化、時代に属する集団の漠然とした合意に過ぎず、最大公約数を例えば法律、社会習慣、常識という形で表しているだけだ。当然ながら、文化が変わり時代が変われば正義の基準も変わるのであり、人類共通不変の正義などあり得ない。
哲学や宗教でも正義はテーマとなりうるが、もともと哲学、宗教が正義を解明する為に存在する。正義が変われば哲学、宗教もそれに連れて変わる。絶対の正義がないから、絶対の哲学も宗教もあり得ない。
このような正義の定義を限られた範囲の哲学や宗教などで得ようなど出来るはずがないし無意味な行為だ。したがって、コバ君がイェーリングを持ち出した時点で無意味な行為に取り憑かれたことを意味する。あくまで学術的な探求にしか意味はない。
誰にでも正義の定義はあるだろうが、それはあくまで自分が自分の属する社会の合意(常識、法律、習慣)と自分自身の価値観で判断するしかない。それが社会人に求められる条件と言っていい。一々古典をひもといて自分の正義の基準を探すこと自体がナンセンスであり、正義の基準を神に求める原理主義者と変わらない。
コバ君がそのような行為をとらざるを得ず、コンビニサンドとウーロン茶持参で図書館に半日こもったのもいわば中共原理主義者の習性のなせるわざであろう。
一方、中国文明が孤立しているかどうかは漠然とした合意などではなく、唯一の結論を見いだしうる事象だ。従って、哲学や宗教ではなく、科学が取り扱う分野となる。当然、過去にどのような研究がなされ、どのような説があるのかを探ることにより、自分の知識を固めることになる。その過程で未だ唯一の結論に達していない事象であれば複数の仮説が提議されていることになる。
科学的結論が時代の経過により変わるなど幾らでもある。だから、数多い仮説のうち、自分が一番納得する説を採用するなど当たり前であり、問題にならないと吐き捨てるコバ君は、結局中共の言うこと以外採用してはならぬというすり込み教育のなせる犠牲者の一人なのであろう。犠牲猿は問題外だが。
社会的合意を自分の価値観で判断すべき事を権威にすがる
科学知識を根拠を基に高める
この二者は全く別の行為である。プーハオ君の根本的な間違いはこの両者を混同していることにある。
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