6歳女の子の降りかかった日本軍による加害
投稿者: jm_s1960 投稿日時: 2006/05/12 15:45 投稿番号: [54987 / 66577]
日本軍によるフィリピンでの住民虐殺
私の辛い体験は、7歳のとき、ラグナ地方のアンヨスという町で、1945年のある日に起こった。ゲリラを捜して日本兵が家に入ってきた。父と二人の叔父はゲリラに参加していて、家にはいなかった。日本兵は、女と幼い子どもばかりの家族を近くの親戚の家に連行した。その2階にはすでに大勢の人々が、老人も若い人も、赤ん坊も集められていた。そして日本兵が銃剣でみんなを突き殺し始めた。私は意識を失い、気がついた時はあたりは暗くなっていた。私は、母、祖母を呼んだが、返事はなかった。それから私の弟や赤ん坊だった妹が泣き出すと、また日本兵がやってきて、弟と妹を投げ上げて銃剣で刺し殺してしまった。私はまた意識を失い、祖母の声で気がついた。わたしと祖母といとこの3人が生き残っていて、逃げることにした。祖母はわき腹の大きな傷から腸がはみ出ていた。下に下りると父の姉妹が全裸で殺されていて、男たちは柱にくくりつけられて刺し殺されていた。逃げる時、祖母を連れて行くことはできなかった。私たちは、ある家にかくまわれ、私は傷の手当てを受けた。傷は5,6ヶ所、2つは今も背中にある。それからカランバのアメリカ軍施設に送られ、治療を受けることができた。
「どうして私だけ生き残ったのか」「どうして両親と一緒に死ぬことを許されなかったのか」私は自問し、神に問いかけてきた。1989年、石田先生が来て、私は、私の体験を証言するよう説得された。私は話したくなかったし、日本へ行くのが怖かったが、大阪や広島などで話していくうちに、私は気付いた。「どうして神様が私をこの世に残したのか」それは、戦争はよいものではないということを私が人々に訴えることができるからなのだと。それが私の使命で、その使命があるからこそ、私はこうして生き長らえているのだと。話をするのは本当に辛いことだが、戦争をやっても何も良いことはないのだと、若い人たちに十分に理解してもらう必要がある。私が経験したような戦争を子供たちに体験して欲しくない。
私が、「バターン死の行進」を見たのは、6歳のときだった。バターンで捕虜になったアメリカ軍とフィリピン軍の捕虜は、マリヴェレスからサンファルナンドまで、100キロの距離を6日間、食べ物も水もなく、行進させられた。捕虜たちは、傷つき病気に近い状態だった。日本兵らは、彼らを銃で殴り、倒れた捕虜を銃剣で刺し殺していた。捕虜は、サンファルナンドからオドンネル収容所に送られ、そこでさらに多くが死んだ。私の兄もそこにいた。
非常に小さいときに残虐で非人間的な行為を目撃したので、私も私なりのやり方で平和に貢献していきたいと思っている。
私の辛い体験は、7歳のとき、ラグナ地方のアンヨスという町で、1945年のある日に起こった。ゲリラを捜して日本兵が家に入ってきた。父と二人の叔父はゲリラに参加していて、家にはいなかった。日本兵は、女と幼い子どもばかりの家族を近くの親戚の家に連行した。その2階にはすでに大勢の人々が、老人も若い人も、赤ん坊も集められていた。そして日本兵が銃剣でみんなを突き殺し始めた。私は意識を失い、気がついた時はあたりは暗くなっていた。私は、母、祖母を呼んだが、返事はなかった。それから私の弟や赤ん坊だった妹が泣き出すと、また日本兵がやってきて、弟と妹を投げ上げて銃剣で刺し殺してしまった。私はまた意識を失い、祖母の声で気がついた。わたしと祖母といとこの3人が生き残っていて、逃げることにした。祖母はわき腹の大きな傷から腸がはみ出ていた。下に下りると父の姉妹が全裸で殺されていて、男たちは柱にくくりつけられて刺し殺されていた。逃げる時、祖母を連れて行くことはできなかった。私たちは、ある家にかくまわれ、私は傷の手当てを受けた。傷は5,6ヶ所、2つは今も背中にある。それからカランバのアメリカ軍施設に送られ、治療を受けることができた。
「どうして私だけ生き残ったのか」「どうして両親と一緒に死ぬことを許されなかったのか」私は自問し、神に問いかけてきた。1989年、石田先生が来て、私は、私の体験を証言するよう説得された。私は話したくなかったし、日本へ行くのが怖かったが、大阪や広島などで話していくうちに、私は気付いた。「どうして神様が私をこの世に残したのか」それは、戦争はよいものではないということを私が人々に訴えることができるからなのだと。それが私の使命で、その使命があるからこそ、私はこうして生き長らえているのだと。話をするのは本当に辛いことだが、戦争をやっても何も良いことはないのだと、若い人たちに十分に理解してもらう必要がある。私が経験したような戦争を子供たちに体験して欲しくない。
私が、「バターン死の行進」を見たのは、6歳のときだった。バターンで捕虜になったアメリカ軍とフィリピン軍の捕虜は、マリヴェレスからサンファルナンドまで、100キロの距離を6日間、食べ物も水もなく、行進させられた。捕虜たちは、傷つき病気に近い状態だった。日本兵らは、彼らを銃で殴り、倒れた捕虜を銃剣で刺し殺していた。捕虜は、サンファルナンドからオドンネル収容所に送られ、そこでさらに多くが死んだ。私の兄もそこにいた。
非常に小さいときに残虐で非人間的な行為を目撃したので、私も私なりのやり方で平和に貢献していきたいと思っている。
これは メッセージ 54982 (jm_s1960 さん)への返信です.
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