猿君もjm君も
投稿者: tokagenoheso 投稿日時: 2005/06/01 18:22 投稿番号: [35709 / 66577]
日本語が達者なのは認めるが正確なニュアンスを理解するまでは行かず、それで見当はずれな枝葉末節に食いつくのかな。(好意的に解釈してだが)
アクアライン氏が適切に書いているのであたしが付け加えることもないくらいだがね、jm君辺りの日本語に対する無知の例として、100歩譲ってを私がjm君の説を認めたと解釈しているらしい。
100歩譲ってとはニュアンスとしてそんなことはあり得ないが、議論を先に進めるために取り敢えず置いといてということだ。
歴史を評価するのは後世だろうが、記録をするのは当事者だ。その記録を正確に残さないから正史を伝えないという事になる。
中国の歴史書と言えば史記が有名だろうし、十八史略とか通俗二十一史などがあるかな。ただ、これは歴史書というより、エピソード集なのだ。そのような意味で三国志演義と対して変わらない。三国志演義は史実に基づいて作られた小説であり、中国の歴史書は大なり小なりこのような傾向がある。客観性に欠けるのだ。
記録としての歴史書には客観性が不可欠であり、日本の記紀から現代史の数々までそういえるよ。小説とは明らかに違う。
日本で最初に学術的な意味合いを持って編纂された歴史書は水戸藩で編まれた「大日本史」かな。1657年に編纂が始まり、1906年にひとまず終わった。250年間延々と編纂作業が続いたのだが、今でも十分に資料として使える客観性を有している。
これは一つの例だ。日本には各地に大小さまざまな客観的な歴史書や資料が存在し、ちょっとした農民や商人が地方の歴史をまとめているなどざらだ。歴史とはこのようにして編纂されてゆくのだ。
一方、中国現代史は外国に置いて客観的に正確に記録されているのに中国に於いてはほぼ無視、捏造、創造、曲解の固まりだ。
現在でこそ形だけ中国は歴史を云々しているが、毛沢東が大暴走をしている頃どんな歴史が刻まれていたのか。
今回は歴史だけについて書く。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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