>反日デモは国家ゲーム 2
投稿者: wmbyq010 投稿日時: 2005/05/13 18:19 投稿番号: [33793 / 66577]
反日デモは国家カーニバルというのが正解だな。
日本と中国共産党の友好関係というのは、長征後の延安で崩壊寸前だった共産党を、日本が蒋介石の国民党を裏切り、大陸を南侵した時から始まる。
西安事件で国共合作に到る事で共産党は復活する事になる。
蒋介石は日本軍を外部疾患に例えて、共産党を内部疾患であると言い切った。
当時,日本の中国侵略を容易にしたのは、国共の対立だった。
ここに、伝統的な戦略なき日本の外交がある。
>「そうだ。謝罪に関していえば、六四年に毛沢東主席が当時の日本の社会党の佐々木更三、黒田寿男両氏が戦争について謝罪しようとしたのに対し、『謝る必要はない。なぜなら中国人民(共産党)は日本軍なしには権力を奪取できなかったからだ』と述べた記録がある。
正確には、中国共産党を歴史的に強大化させたのは日本軍だということだ。
誤解してはいけないのは、中国共産党は日本に謝罪など要求した事は無い。
中国政府が日本に謝罪したのだ。なぜなら、中国政府は中国国民を代表する立場にある。
もうひとつ、中国人民と中国国民とでは解釈が違うので要注意だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長征
http://www.mediabahn.co.jp/china/doc/totid4.html
戦局が悪化の一途をたどると中共指導部はついに根拠地の放棄を決定した。一九三四年一〇月、一〇万の紅軍はいっせいに西進を開始した。だが、これが敵の攻勢に押されての逃避行であることは誰の目にも明らかであった。当然ながら兵士たちの士気はふるわず、しかも追撃する国民党軍は間断なくしかも容赦ない攻撃を加えてくる。そのため最初の三か月だけで兵士の数は三分の一にまで激減した。
ここで毛沢東は指導権奪回に動いた。途中、貴州省遵義で拡大政治局会議の開催を要求、オットー・ブラウンや秦邦憲らの軍事路線の誤りを徹底的に糾弾した。会議は激しい論戦の末、周恩来の自己批判もあって結局オットー・ブラウンらの軍事路線に対する非難決議を採択して終わった。
再び指導権を握った毛沢東は、この行軍に「北上抗日」という積極的な目標を掲げ、兵士たちの志気を高めることに成功した。また行軍部隊を遊撃戦向けに再編成、よけいな荷物を一切捨て去り身軽にした上で再び行軍を開始した。
だが、厳しい自然環境と執拗な国民党軍の攻撃にさらされながらの行軍は依然として楽ではなかった。その後、貴州省から四川省、甘粛省と西南の辺境地帯を大きく迂回し、最終的に陜西省の根拠地保安に到着したときは、途中指導層の内部分裂もあって、毛沢東の率いる紅軍主力部隊はわずか八〇〇〇人にまで減っていた。
瑞金を後にしてからおよそ一年。その間踏破した道のりは、一八の山脈と一一の省にまたがる全行程一万二〇〇〇キロにのぼった。「ハンニバルのアルプス越えもこれに比べれば休日の遠足に過ぎない」と、その翌年延安に入ったアメリカ人ジャーナリストエドガー・スノーが賛嘆したこの史上まれにみる大行軍は、のちに「大長征」と命名され、中国革命史上における一遍の叙事詩としていまもなお多くの人々に語り継がれている。
日本と中国共産党の友好関係というのは、長征後の延安で崩壊寸前だった共産党を、日本が蒋介石の国民党を裏切り、大陸を南侵した時から始まる。
西安事件で国共合作に到る事で共産党は復活する事になる。
蒋介石は日本軍を外部疾患に例えて、共産党を内部疾患であると言い切った。
当時,日本の中国侵略を容易にしたのは、国共の対立だった。
ここに、伝統的な戦略なき日本の外交がある。
>「そうだ。謝罪に関していえば、六四年に毛沢東主席が当時の日本の社会党の佐々木更三、黒田寿男両氏が戦争について謝罪しようとしたのに対し、『謝る必要はない。なぜなら中国人民(共産党)は日本軍なしには権力を奪取できなかったからだ』と述べた記録がある。
正確には、中国共産党を歴史的に強大化させたのは日本軍だということだ。
誤解してはいけないのは、中国共産党は日本に謝罪など要求した事は無い。
中国政府が日本に謝罪したのだ。なぜなら、中国政府は中国国民を代表する立場にある。
もうひとつ、中国人民と中国国民とでは解釈が違うので要注意だ。
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長征
http://www.mediabahn.co.jp/china/doc/totid4.html
戦局が悪化の一途をたどると中共指導部はついに根拠地の放棄を決定した。一九三四年一〇月、一〇万の紅軍はいっせいに西進を開始した。だが、これが敵の攻勢に押されての逃避行であることは誰の目にも明らかであった。当然ながら兵士たちの士気はふるわず、しかも追撃する国民党軍は間断なくしかも容赦ない攻撃を加えてくる。そのため最初の三か月だけで兵士の数は三分の一にまで激減した。
ここで毛沢東は指導権奪回に動いた。途中、貴州省遵義で拡大政治局会議の開催を要求、オットー・ブラウンや秦邦憲らの軍事路線の誤りを徹底的に糾弾した。会議は激しい論戦の末、周恩来の自己批判もあって結局オットー・ブラウンらの軍事路線に対する非難決議を採択して終わった。
再び指導権を握った毛沢東は、この行軍に「北上抗日」という積極的な目標を掲げ、兵士たちの志気を高めることに成功した。また行軍部隊を遊撃戦向けに再編成、よけいな荷物を一切捨て去り身軽にした上で再び行軍を開始した。
だが、厳しい自然環境と執拗な国民党軍の攻撃にさらされながらの行軍は依然として楽ではなかった。その後、貴州省から四川省、甘粛省と西南の辺境地帯を大きく迂回し、最終的に陜西省の根拠地保安に到着したときは、途中指導層の内部分裂もあって、毛沢東の率いる紅軍主力部隊はわずか八〇〇〇人にまで減っていた。
瑞金を後にしてからおよそ一年。その間踏破した道のりは、一八の山脈と一一の省にまたがる全行程一万二〇〇〇キロにのぼった。「ハンニバルのアルプス越えもこれに比べれば休日の遠足に過ぎない」と、その翌年延安に入ったアメリカ人ジャーナリストエドガー・スノーが賛嘆したこの史上まれにみる大行軍は、のちに「大長征」と命名され、中国革命史上における一遍の叙事詩としていまもなお多くの人々に語り継がれている。
これは メッセージ 33778 (yasei7 さん)への返信です.
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