日中戦争を仕掛けたのは誰か 1
投稿者: okureteru2005 投稿日時: 2005/02/11 11:14 投稿番号: [23975 / 66577]
日中戦争の端緒1
盧溝橋事件
1937年7月7日盧溝橋事件
事件の経緯 (wikipediaから)
7月7日
22:40頃 永定河に駐屯中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、豊台の一木直大隊長、北平の牟田口廉也連隊長、北平特務機関の順に伝達される。
23:00頃 行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり)
7月8日
03:25
第8中隊が盧溝橋東方2kmの西五里店に撤退を完了、同じく西五里店に移動していた第3大隊と合流する。直後、竜王廟方向より3発の銃撃を受ける。
04:00
特務機関は日華双方の代表からなる軍使を現地に派遣し、不拡大方針の徹底を計る。構成員は、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平輔補佐官、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員。ただし桜井少佐のみ盧溝橋城の開門交渉の為に先行している。
04:20
一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて経過を報告。2度目の銃撃の報にて連隊長は戦闘開始を許可、大隊長は砲撃準備を命令。
05:00頃
特務機関の軍使一向が現地盧溝橋に到着。再度、不拡大方針を説く。これ受けて大隊は砲撃準備を一時中断。
05:30
同大隊、竜王廟方向より銃撃を受け、応戦、発砲者を撃破。
===============
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina1.html
7月11日1800には松井大佐と現地師(団)長との間に停戦協定が調印された。支那側は最初の発砲は支那軍ではない、と主張したが、日本軍側に遺憾の意を表し、責任者を処分すること等を条件に我が軍は蘆溝橋から撤兵した。
7月11日の停戦協定成立後の13日夜には再び射撃を交えることとなった。(日支両陣営の中間地点で拳銃や爆竹を鳴らすものがあった。中共の策謀の可能性が極めて高い)。また支那側は兵力の撤退を行わず、却って兵力を増大し、12日の天津発同盟によれば、支那中央軍の北上は活発を極め、武器弾薬の輸送も戦時状態を呈しつつあった。
7月17日 蒋介石は、蘆溝橋事件は日本側の計画的挑戦行為であり「最後の関頭」の境界である、とする重大な決意を声明。これを受けた我が国は、対日全面戦争を決意したものと判断した。7月25日、天津と北京の中間で、軍用電線を修理中の我が部隊が、張自忠の部隊から攻撃を受け多数の死傷者を出す郎坊事件が発生。蘆溝橋付近における支那軍の挑発的態度に変化なく、北平や南苑付近でも各種小事件が発生、26日には広安門城壁上からトラックに分乗した我が部隊を射撃する広安門事件が起こった。さらには29日安全であるはずの通州で、支那の保安隊が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260人を惨殺する通州事件が発生した。 ついに支那派遣軍は軍事行動の意見具申を中央に打電、不拡大主義者・作戦部長石原莞爾も事ここに到っては決断せざるを得ず、居留民・権益保護のための動員派兵が決定されたのである。
1937年7月7日盧溝橋事件
事件の経緯 (wikipediaから)
7月7日
22:40頃 永定河に駐屯中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟より複数発の銃撃を行う。同中隊はただちに集合、兵一名が行方不明と判明する。事件発生の報告は、清水節郎中隊長より、豊台の一木直大隊長、北平の牟田口廉也連隊長、北平特務機関の順に伝達される。
23:00頃 行方不明であった兵が帰隊。(野地小隊長の手記によれば、伝令に出たまま行方不明になったとのこと。他に「用便」説あり)
7月8日
03:25
第8中隊が盧溝橋東方2kmの西五里店に撤退を完了、同じく西五里店に移動していた第3大隊と合流する。直後、竜王廟方向より3発の銃撃を受ける。
04:00
特務機関は日華双方の代表からなる軍使を現地に派遣し、不拡大方針の徹底を計る。構成員は、日本側が森田徹中佐・赤藤庄次少佐・桜井徳太郎少佐・寺平輔補佐官、中国側は王冷斎宛平県長・林耕宇冀察政務委員。ただし桜井少佐のみ盧溝橋城の開門交渉の為に先行している。
04:20
一木大隊長が牟田口連隊長に電話にて経過を報告。2度目の銃撃の報にて連隊長は戦闘開始を許可、大隊長は砲撃準備を命令。
05:00頃
特務機関の軍使一向が現地盧溝橋に到着。再度、不拡大方針を説く。これ受けて大隊は砲撃準備を一時中断。
05:30
同大隊、竜王廟方向より銃撃を受け、応戦、発砲者を撃破。
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http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-sina1.html
7月11日1800には松井大佐と現地師(団)長との間に停戦協定が調印された。支那側は最初の発砲は支那軍ではない、と主張したが、日本軍側に遺憾の意を表し、責任者を処分すること等を条件に我が軍は蘆溝橋から撤兵した。
7月11日の停戦協定成立後の13日夜には再び射撃を交えることとなった。(日支両陣営の中間地点で拳銃や爆竹を鳴らすものがあった。中共の策謀の可能性が極めて高い)。また支那側は兵力の撤退を行わず、却って兵力を増大し、12日の天津発同盟によれば、支那中央軍の北上は活発を極め、武器弾薬の輸送も戦時状態を呈しつつあった。
7月17日 蒋介石は、蘆溝橋事件は日本側の計画的挑戦行為であり「最後の関頭」の境界である、とする重大な決意を声明。これを受けた我が国は、対日全面戦争を決意したものと判断した。7月25日、天津と北京の中間で、軍用電線を修理中の我が部隊が、張自忠の部隊から攻撃を受け多数の死傷者を出す郎坊事件が発生。蘆溝橋付近における支那軍の挑発的態度に変化なく、北平や南苑付近でも各種小事件が発生、26日には広安門城壁上からトラックに分乗した我が部隊を射撃する広安門事件が起こった。さらには29日安全であるはずの通州で、支那の保安隊が叛乱をおこし、特務機関長細木繁中佐以下日本人居留民260人を惨殺する通州事件が発生した。 ついに支那派遣軍は軍事行動の意見具申を中央に打電、不拡大主義者・作戦部長石原莞爾も事ここに到っては決断せざるを得ず、居留民・権益保護のための動員派兵が決定されたのである。
これは メッセージ 23974 (okureteru2005 さん)への返信です.
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