南京大虐殺の数字(FW)2
投稿者: crazyphenomena 投稿日時: 2004/08/09 22:56 投稿番号: [4869 / 21882]
。。南京市政府の一九三六年四月の統計によると、南京の市街区と農村の人口総数は百一万九千百四十八人であった(一九三六年五月南京市政府の内政部宛て文書を参照。同文書は中国第二歴史文書保存館に収蔵されている)。日本の南京商社編集の『南京人の概況』も、一九三六年の南京人口は合計百万六千九百六十八人と記載している。
。。上海が占領されたあと、国民党政府は首都を重慶に移すことを決定し、政府機関や学校、企業なども続々と中国西部に移り、大勢の市民もこれに従って移住し、南京市の人口が減った。日本の外相広田弘毅が一九三七年十月二十八日東京から北平(現・北京)に駐在する森島参事官に打った電報は、「南京市内の公務員と軍人家族はみな避難して、人口が激減した。警察庁の調べによれば、現在の人口は五十三万余人で、いずれも各機関の公務員、財産を移転できない者、地元の商人らあくまで南京に踏みとどまる必要のある人ばかりである」と言っている(中国文書保存館、中国第二歴史文書保存館、吉林省社会科学院合編の『南京大虐殺図証』)。十一月二十三日、南京市政府が国民党軍事委員会兵站部に宛てた六文書は「調べによると、本市の人口は現在五十余万ある」と言っている。(原本は中国第二歴史文書保存館に収蔵されている)。このほか、上海、蕪湖、鎮江などから逃げてきた難民と前線から下がってきた負傷兵が十数万人に達すると見られた。中国の南京衛戌司令長官唐生智の率いる約十四万の軍隊は南京防衛にあたっていた。唐生智は「南京と存亡を共にする」と表明し、下関=浦口間のフェリーを撤去するように命じ、部隊が揚子江を渡って北の方へ撤退するのを禁じ、背水の陣を敷いた。十一月二十三日から十二月十三日まででの南京が占領された二十日間に、一小部分の南京市民と地方から来た難民と負傷兵が他所へ移ったとはいえ、大多数の南京市民は「南京に最後まで踏みとどまる必要があった」。ほかに、地方から来た大多数の難民と負傷兵は、下関=浦口間のフェリーが撤去されたため、一時は疎開することもできず、南京に居残った。南京が占領された当時の人口の状況がはっきりしているのに、石原慎太郎氏のいう「南京の当時の人口は二十万足らず」は、まったく虚構である。氏はこの虚構の「論拠」に基づいて「南京大虐殺虚構論」をでっち上げたが、その狙いは、中国侵略日本軍の南京大虐殺を否定することから始め、さらに一歩進んで日本の対中戦争の侵略の性質を否定することにある。しかし、南京大虐殺は血で書かれた歴史であり、いくら「論拠」を虚構しても抹殺できるものではない。
これは メッセージ 4865 (crazyphenomena さん)への返信です.
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