勝海舟 2
投稿者: asian_falcon2005 投稿日時: 2005/07/01 23:13 投稿番号: [18204 / 21882]
続き
(2)幕末から晩年まで
勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではなく日本の海軍建設を目指すが、保守派から睨まれ、軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。 1866年、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功。しかし慶喜は停戦の勅令引き出しに成功。いわば勝は時間稼ぎに利用され、裏切られたのである。これに対し勝は自らお役ごめんを願い出、江戸に帰る。勝が出世欲の塊であるという一部の見識はこれを見ても根拠のないことが分かるであろう。 戊辰戦争時には陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府の代表となる。官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。かねてから親しかった官軍側の西郷隆盛との交渉に単身で臨み、江戸市中を戦火から救った。これは勝海舟の行った最も大きな仕事の一つと賞される。
維新後は勝安芳の名で伯爵、枢密院顧問となり、晩年は悠悠自適の生活を送りながらも、朝敵とされた慶喜の赦免、旧幕臣の生活保護に力を尽くした。1899年1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日に亡くなった。
2,人物
回想録として『氷川清話』がある。これは海舟の談話を記者が速記したものであり、海舟のざっくばらんな肉声により、幕末・明治の歴史を動かした人々の人物などが語られているが、古い版では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者による歪曲・改竄の後が見られるという。
同書に収められた海舟の談話はしばしば自慢に走ることがあり、これは伊藤博文をはじめとする元勲の政治に対する無遠慮な批判とともに、晩年の海舟が煙たがられ、嫌われる一因ともなった。福沢諭吉は海舟の批判者であり、「瘠我慢の説」という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家には充分尽くしたのであり、また徳川家という狭い枠にとどまらず、日本のために尽くしたのである。現に明治維新という急激な改革に不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついにそむくことはなかった。これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。このことはもっと評価されてもよい。
また日清戦争には始終反対をした。 彼は幕末時より西欧列強に対し、日本、清、朝鮮による3国連合を構想していたこともある。
海舟が新政府より子爵の内示を受けた際、「今までは 人並の身と 思いしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」との歌と共に突き返した為、新政府側が慌てて伯爵に格上げしたとされている。これも爵位などにこだわらない勝の姿勢の現れである。
(2)幕末から晩年まで
勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではなく日本の海軍建設を目指すが、保守派から睨まれ、軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。 1866年、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功。しかし慶喜は停戦の勅令引き出しに成功。いわば勝は時間稼ぎに利用され、裏切られたのである。これに対し勝は自らお役ごめんを願い出、江戸に帰る。勝が出世欲の塊であるという一部の見識はこれを見ても根拠のないことが分かるであろう。 戊辰戦争時には陸軍総裁として、後に軍事総裁として旧幕府の代表となる。官軍が江戸に迫ると徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張。かねてから親しかった官軍側の西郷隆盛との交渉に単身で臨み、江戸市中を戦火から救った。これは勝海舟の行った最も大きな仕事の一つと賞される。
維新後は勝安芳の名で伯爵、枢密院顧問となり、晩年は悠悠自適の生活を送りながらも、朝敵とされた慶喜の赦免、旧幕臣の生活保護に力を尽くした。1899年1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日に亡くなった。
2,人物
回想録として『氷川清話』がある。これは海舟の談話を記者が速記したものであり、海舟のざっくばらんな肉声により、幕末・明治の歴史を動かした人々の人物などが語られているが、古い版では、当時の政治を批判した部分に、編集に当たった記者による歪曲・改竄の後が見られるという。
同書に収められた海舟の談話はしばしば自慢に走ることがあり、これは伊藤博文をはじめとする元勲の政治に対する無遠慮な批判とともに、晩年の海舟が煙たがられ、嫌われる一因ともなった。福沢諭吉は海舟の批判者であり、「瘠我慢の説」という公開書簡によって、海舟と榎本武揚(共に旧幕臣でありながら明治政府に仕えた)を批判している。勝が維新後に栄誉を受けたことを転身、裏切りとするこの手の意見は今も絶えないが、勝、榎本両者は徳川家には充分尽くしたのであり、また徳川家という狭い枠にとどまらず、日本のために尽くしたのである。現に明治維新という急激な改革に不平士族たちが反乱を起こすが、最大の敵性グループであった旧幕臣たちはついにそむくことはなかった。これは勝や大久保一翁、山岡鉄舟らの尽力によるものである。このことはもっと評価されてもよい。
また日清戦争には始終反対をした。 彼は幕末時より西欧列強に対し、日本、清、朝鮮による3国連合を構想していたこともある。
海舟が新政府より子爵の内示を受けた際、「今までは 人並の身と 思いしが 五尺に足らぬ四尺(子爵)なりとは」との歌と共に突き返した為、新政府側が慌てて伯爵に格上げしたとされている。これも爵位などにこだわらない勝の姿勢の現れである。
これは メッセージ 18203 (asian_falcon2005 さん)への返信です.