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勝海舟 1

投稿者: asian_falcon2005 投稿日時: 2005/07/01 23:12 投稿番号: [18203 / 21882]
日本海軍の祖と言っていいでしょう。

リンクが張れないので丸ごとコピーしました(汗。

勝 海舟(かつ かいしゅう、文政六年一月三十日(1823年3月12日) - 明治三十二年(1899年)1月21日) 江戸時代末の幕臣、政治家である。幼名は麟太郎(りんたろう)。本名義邦 (よしくに)、維新後改名して安芳(やすよし)。これは幕末期、安房守に任官されたことから勝 安房(かつ あわ)と呼ばれたため、安房(あほう)と同じ音の安芳と変えたもの。海舟は号。佐久間象山よりもらった「海舟書屋」よりとったという。父は旗本小普請組の勝小吉。母は信。

山岡鉄舟・高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。

1,生涯


(1)出生から海軍伝習所時代

本所亀沢町(東京都墨田区両国)の生まれ。勝家は小身の旗本で、父小吉は男谷家からの養子。小普請組という、無役の旗本であった。幼少時には男谷の親類、阿茶の局の紹介で11代将軍徳川家斉の孫初の丞(後の一橋慶昌)の遊び相手として江戸城へ召されている。このままゆけば一橋家の重臣として大出世する予定であった。が、慶昌の早世によりその夢は消えた。 はじめは父子吉の本家、男谷精一郎の道場、後に精一郎の高弟島田虎之助の道場(浅草港区)で剣術(直心影流)を学び、免許皆伝となる。また虎之助の薦めにより禅も学び、後には蘭学も学んだ。はじめは江戸の蘭学者であった箕作阮甫に弟子入りを希望するが却下される。結局、赤坂溜池の福岡藩屋敷内に住んでいた永井青崖に弟子入り。これをきっかけに住居を本所から赤坂田町に移した。(氷川に移ったのは1859年のこと)。蘭学修行中、辞書「ヅーフハルマ」を二部写したのは有名な話である。佐久間象山の知遇を得、妹の順子は象山に嫁している。象山の薦めもあり西洋兵学を修め、田町に蘭学塾を開く。後に日本統計学の祖となる杉亨二が塾頭となる。

1853年、ペリーが来航すると老中阿部正弘は海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。海舟も海防意見書を提出。その高い見識は阿部正弘の目にとまり、幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たす。やがて長崎の海軍伝習所に入門。伝習所では教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。そのため、引継ぎの役割から第1期から3期まで足掛け5年間を長崎で過ごす。このことを「勝は成績が悪く、3度落第した」とする記述もあるが、そのソースは反勝派の旧幕臣から出たものであり、事実とは言いがたい。オランダ教官からは非常に評価されているからである。 1860年には、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカへ渡る。実際にこの計画を立ち上げたのは岩瀬忠震ら、一橋派の幕臣であったが、安政の大獄で引退を余儀なくされたため、木村摂津守善毅が軍艦奉行並となり、遣米使節の補充員として乗船。また米海軍測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉も同乗した。他に通訳としてジョン万次郎、木村の従者として福沢諭吉も乗り込んでいる。咸臨丸の航海については勝も福沢も「日本人の手で成し遂げた壮挙」としているが、実際には日本人乗組員は船酔いに会いほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという。また福沢の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」としているが、実際にそのような役職はなく、木村は軍艦奉行並、勝は教授方取り扱いという立場であった。なおアメリカ側は木村をアドミラル(提督)、勝をキャプテン(艦長)と呼んでいた。 帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。この間、神戸海軍操練所では坂本龍馬らを入門させて教授したとされる(海舟自身は、刺客として自分を斬りに来た龍馬を説得して逆に弟子としたと語っているが、これはおそらく、海舟一流のリップサービスであろうと見られる)。
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