>>そう君たちは既に私から・・・
投稿者: omoshirokunaiwa 投稿日時: 2005/06/16 23:10 投稿番号: [17983 / 21882]
今日のボランティアはたいへん疲れたよ。眠たいよ〜アァ〜あくびが出るぅ〜
酒の肴にトピを見るとキーボー君がなにやら我輩に質問しているようだが
ちょつと暇つぶしに酔いに任せて世俗者如きの君に返事してあげよう。
無神論者である我輩に尋ねるたぁ〜良い根性しとるやんかぁ〜!
キーボー君の質問
>「はじめに言葉ありき」とありまして
この「言葉」はロゴスである、としていますが、「ロゴス」って何ですか?<
「ロゴス」=言葉だよ♪
そんなことも分からんのか!
日本語理解の言葉ではないぞ〜
ロゴス=言葉=神性 神のこれから行うであろう"御意志"に近い意味と受け止める聖書学者も居るぞ!
その質問に答えるため,ヨハネの福音書の冒頭の,「初めに言葉がおり,言葉は神と共にあり,言葉は神[God]であった」という聖句を引き合いに出す人もいるだろう。(ヨハネ 1:1,ジェームズ王欽定訳)英国国教会の主教と実際には矛盾はしておらんぞ。現代の翻訳者の中には,ジェームズ王欽定訳のこの聖句の訳し方に同意しない人もいます。なぜだと思う?kee_tarou君よ。
元のギリシャ語の「言葉は神であった」という表現では,「神」に相当する語に“the”という定冠詞が付いていないからだ。その前の「言葉は神と共にあり」という表現では,「神」に相当する語は特定のものを指している,つまり定冠詞が付いている。それで,これら二つの語に同じ意味があるとはどうやら考えられないのだろう。
それで,ある翻訳では性質的な面を表に出していますよ。
例えば,その表現を「言葉は神性を備えていた」としている翻訳もあります。
(アメリカ訳,ショーンフィールド訳)モファット訳は,「ロゴスは神性を備えていた」としています。
しかし,そのようなことを強調したかったのであれば,ヨハネは,「神性を備えていた」に相当するギリシャ語テイオスを使うことができただろう,とジョン・ロビンソンと英国の聖書本文批評家フレデリック・ケニヨン卿は指摘しており,「神性」という語が必ずしも適切な訳ではないことを示唆していますな!。
新世界訳は,「神」という語は特定のものを指していないという正しい見方を持ち,ギリシャ語の構造が示唆している性質的な面も表に出しながら,英語の不定冠詞を用いて,「言葉は神[a god]であった」としています。
「新英訳聖書」出版計画の責任者,C・H・ドッド教授はこの訳し方について次のように注解しています。「考えられる翻訳は……『言葉は神[a god]であった』だろう。これは字義訳として文句のつけようがない」。しかし「新英訳聖書」はこの聖句をそのように訳していません。それどころか,その翻訳のヨハネ 1章1節は,「すべてのものが始まったとき,言葉はすでにあった。言葉は神と共に住み,神であったもの,言葉はそのようなものであった」となっています。その翻訳委員会がもっと簡潔に訳そうとしなかったのはなぜであろうか。
ドッド教授はこう答えています。「それが受け入れられない理由は,ヨハネの思想,また正にクリスチャンの思想全体の流れに反するからである
結局のところ、
あらゆるキリスト教宗派の言葉(ロゴス)の解釈が違うわけだ!
しかし、言えるのはロゴスつまり、神の御意志が初めにあったとするのが理解しやすいだろう。
kee_tarou君!
聖書が純粋に意味するところ
イエスは神[a god]であり,創造者なる神と同じではないという考えは,ヨハネ(つまり使徒ヨハネ)の思想やクリスチャンの思想全体と対立すると言えるようだ。イエスと神に言及している幾つかの聖句を調べてみると分かる。そうすれば,アタナシウス信経の成立前に生きていた注釈者たちがそれらの聖句についてどのように考えていたかが分かるだろう。キーボー君
で、それがどうしたって言うんだい?
酒の肴にトピを見るとキーボー君がなにやら我輩に質問しているようだが
ちょつと暇つぶしに酔いに任せて世俗者如きの君に返事してあげよう。
無神論者である我輩に尋ねるたぁ〜良い根性しとるやんかぁ〜!
キーボー君の質問
>「はじめに言葉ありき」とありまして
この「言葉」はロゴスである、としていますが、「ロゴス」って何ですか?<
「ロゴス」=言葉だよ♪
そんなことも分からんのか!
日本語理解の言葉ではないぞ〜
ロゴス=言葉=神性 神のこれから行うであろう"御意志"に近い意味と受け止める聖書学者も居るぞ!
その質問に答えるため,ヨハネの福音書の冒頭の,「初めに言葉がおり,言葉は神と共にあり,言葉は神[God]であった」という聖句を引き合いに出す人もいるだろう。(ヨハネ 1:1,ジェームズ王欽定訳)英国国教会の主教と実際には矛盾はしておらんぞ。現代の翻訳者の中には,ジェームズ王欽定訳のこの聖句の訳し方に同意しない人もいます。なぜだと思う?kee_tarou君よ。
元のギリシャ語の「言葉は神であった」という表現では,「神」に相当する語に“the”という定冠詞が付いていないからだ。その前の「言葉は神と共にあり」という表現では,「神」に相当する語は特定のものを指している,つまり定冠詞が付いている。それで,これら二つの語に同じ意味があるとはどうやら考えられないのだろう。
それで,ある翻訳では性質的な面を表に出していますよ。
例えば,その表現を「言葉は神性を備えていた」としている翻訳もあります。
(アメリカ訳,ショーンフィールド訳)モファット訳は,「ロゴスは神性を備えていた」としています。
しかし,そのようなことを強調したかったのであれば,ヨハネは,「神性を備えていた」に相当するギリシャ語テイオスを使うことができただろう,とジョン・ロビンソンと英国の聖書本文批評家フレデリック・ケニヨン卿は指摘しており,「神性」という語が必ずしも適切な訳ではないことを示唆していますな!。
新世界訳は,「神」という語は特定のものを指していないという正しい見方を持ち,ギリシャ語の構造が示唆している性質的な面も表に出しながら,英語の不定冠詞を用いて,「言葉は神[a god]であった」としています。
「新英訳聖書」出版計画の責任者,C・H・ドッド教授はこの訳し方について次のように注解しています。「考えられる翻訳は……『言葉は神[a god]であった』だろう。これは字義訳として文句のつけようがない」。しかし「新英訳聖書」はこの聖句をそのように訳していません。それどころか,その翻訳のヨハネ 1章1節は,「すべてのものが始まったとき,言葉はすでにあった。言葉は神と共に住み,神であったもの,言葉はそのようなものであった」となっています。その翻訳委員会がもっと簡潔に訳そうとしなかったのはなぜであろうか。
ドッド教授はこう答えています。「それが受け入れられない理由は,ヨハネの思想,また正にクリスチャンの思想全体の流れに反するからである
結局のところ、
あらゆるキリスト教宗派の言葉(ロゴス)の解釈が違うわけだ!
しかし、言えるのはロゴスつまり、神の御意志が初めにあったとするのが理解しやすいだろう。
kee_tarou君!
聖書が純粋に意味するところ
イエスは神[a god]であり,創造者なる神と同じではないという考えは,ヨハネ(つまり使徒ヨハネ)の思想やクリスチャンの思想全体と対立すると言えるようだ。イエスと神に言及している幾つかの聖句を調べてみると分かる。そうすれば,アタナシウス信経の成立前に生きていた注釈者たちがそれらの聖句についてどのように考えていたかが分かるだろう。キーボー君
で、それがどうしたって言うんだい?
これは メッセージ 17970 (kee_tarou さん)への返信です.