追記、イギリス革命
投稿者: kon_do_i 投稿日時: 2004/10/01 18:49 投稿番号: [13614 / 21882]
イギリス革命(17世紀)超簡略説明追記編(w
イギリス革命は、ピューリタン革命と名誉革命の2段階革命でした
そして「絶対王政・立憲王政・共和制」という3つの政治体制の間をジグザグに動いた革命でもあります
革命のきっかけは、絶対王政の行き詰まりでした
時の国王チャールズ1世は、議会を無視し重税を取り立てる一方、反抗的な非国教徒、特にピューリタンを弾圧したことです
これに対し、議会は、「同意の原則」を盾に権利請願を出しました
ところが国王は議会を閉鎖し、専制政治を11年間に渡って行いました
国民は税金不払い闘争で抵抗したのです
そこに、スコットランドの反乱が起き、これを抑えるための費用が必要になりました
国王は仕方なく議会を招集し課税問題を承認させようとしました
集まった議員たちは、税金問題を審議せず、国王の失政を批判します
さらに、国王の権限を制限するため大抗議文を提案しました
もしこれが満場一致で採決されていれば、ピューリタン革命はなかったかも知れないのです
この大抗議文をめぐり、議会は分裂しました
この内容が事実上の立憲王政を目指すものだったからです
王党派と議会派に分裂し、内戦が始まりました…
これを「ピューリタン革命」といいます
内戦は、マーストンムーア、ネーズビーの戦いに勝った議会派の勝利で終わりました
ところが勝った途端にこの議会派が分裂してしまいます
理由は、信仰上の問題や出身階層の利益などいろいろ複雑でしたが、
「立憲王政か共和制」or「制限選挙」or「普通選挙」
かという、路線対立が起きました。この時点で内戦です
この戦いも議会派、特に独立派と水平派とからなる議会軍の勝利で終わり、捕らわれた国王は処刑されました
そして新たな王は立てられず、共和制が実現するのです
しかし、この共和制をどのように運営するかで、クロムウェルは水平派を弾圧し、独立派主導を実現しました
さらにアイルランド征服、航海条令、それに続く英蘭戦争、議会の解散、護国卿就任等々、武力を背景にした専制政治を強行していきました
このクロムウェルの独裁体制は彼の死で崩壊してしまいました
そして、混乱したイングランド(後のイギリス)を立て直すため、王政復古となったのでした
チャールズ2世は、帰国直前、ブレダ宣言を出し、寛大な政治を約束しました
しかしメッキはすぐに剥がれました(爆
ピューリタンを弾圧し、カトリック復活を策したのです
それを象徴するのが「ドーバーの密約」です
議会は国王を抑え込むため、相次いで2つの歯止めをかけました
審査律、そして人身保護律です
チャールズ2世の後、弟のジェームズ2世が即位します
この国王をめぐって議会が分裂しました
彼が審査律で公職から排除されていたカトリックだったからです。
(私たちからすれば、それだけの理由で?と思いますが、やはりこの当時の視点に立たないと、到底理解不能です)
彼の即位を支持したグループはトーリーでしたが、国王に生まれるはずがないと思われていた男子が誕生した途端、対立していたホイッグと結束します
議会は一致して、オランダの総督夫妻を新しい国王としてスカウト?しました
誰も支えてくれぬことを悟ったジェームズは玉璽をテムズ川に投げ込んで国外に逃亡します
こうして血を一滴も流すことなく新しい国王が誕生しました
これを「名誉革命」といいます
新国王は権利宣言を認め、権利章典として発布し、立憲王政という体制が完成しました
おしまい
詳細はkoukiumeno様が発表してくれるそうです。やる気マンマンです!ガムバ!
イギリス革命は、ピューリタン革命と名誉革命の2段階革命でした
そして「絶対王政・立憲王政・共和制」という3つの政治体制の間をジグザグに動いた革命でもあります
革命のきっかけは、絶対王政の行き詰まりでした
時の国王チャールズ1世は、議会を無視し重税を取り立てる一方、反抗的な非国教徒、特にピューリタンを弾圧したことです
これに対し、議会は、「同意の原則」を盾に権利請願を出しました
ところが国王は議会を閉鎖し、専制政治を11年間に渡って行いました
国民は税金不払い闘争で抵抗したのです
そこに、スコットランドの反乱が起き、これを抑えるための費用が必要になりました
国王は仕方なく議会を招集し課税問題を承認させようとしました
集まった議員たちは、税金問題を審議せず、国王の失政を批判します
さらに、国王の権限を制限するため大抗議文を提案しました
もしこれが満場一致で採決されていれば、ピューリタン革命はなかったかも知れないのです
この大抗議文をめぐり、議会は分裂しました
この内容が事実上の立憲王政を目指すものだったからです
王党派と議会派に分裂し、内戦が始まりました…
これを「ピューリタン革命」といいます
内戦は、マーストンムーア、ネーズビーの戦いに勝った議会派の勝利で終わりました
ところが勝った途端にこの議会派が分裂してしまいます
理由は、信仰上の問題や出身階層の利益などいろいろ複雑でしたが、
「立憲王政か共和制」or「制限選挙」or「普通選挙」
かという、路線対立が起きました。この時点で内戦です
この戦いも議会派、特に独立派と水平派とからなる議会軍の勝利で終わり、捕らわれた国王は処刑されました
そして新たな王は立てられず、共和制が実現するのです
しかし、この共和制をどのように運営するかで、クロムウェルは水平派を弾圧し、独立派主導を実現しました
さらにアイルランド征服、航海条令、それに続く英蘭戦争、議会の解散、護国卿就任等々、武力を背景にした専制政治を強行していきました
このクロムウェルの独裁体制は彼の死で崩壊してしまいました
そして、混乱したイングランド(後のイギリス)を立て直すため、王政復古となったのでした
チャールズ2世は、帰国直前、ブレダ宣言を出し、寛大な政治を約束しました
しかしメッキはすぐに剥がれました(爆
ピューリタンを弾圧し、カトリック復活を策したのです
それを象徴するのが「ドーバーの密約」です
議会は国王を抑え込むため、相次いで2つの歯止めをかけました
審査律、そして人身保護律です
チャールズ2世の後、弟のジェームズ2世が即位します
この国王をめぐって議会が分裂しました
彼が審査律で公職から排除されていたカトリックだったからです。
(私たちからすれば、それだけの理由で?と思いますが、やはりこの当時の視点に立たないと、到底理解不能です)
彼の即位を支持したグループはトーリーでしたが、国王に生まれるはずがないと思われていた男子が誕生した途端、対立していたホイッグと結束します
議会は一致して、オランダの総督夫妻を新しい国王としてスカウト?しました
誰も支えてくれぬことを悟ったジェームズは玉璽をテムズ川に投げ込んで国外に逃亡します
こうして血を一滴も流すことなく新しい国王が誕生しました
これを「名誉革命」といいます
新国王は権利宣言を認め、権利章典として発布し、立憲王政という体制が完成しました
おしまい
詳細はkoukiumeno様が発表してくれるそうです。やる気マンマンです!ガムバ!
これは メッセージ 13596 (koukiyumeno さん)への返信です.