「依存」【全般的or非全般的】
投稿者: clionomiko 投稿日時: 2004/11/21 14:54 投稿番号: [25235 / 44985]
この投稿は、特定の対象にむけたものではない。私の雑感だ。その意味では先に私が定義したカテゴリーの【全般的】に入ると言える。だが、大部分にはトピズレを含んでいる。その点は【非全般的】だ。そして、nagoyan_2shiki氏の25226への横レスでもある。
ここまで読まれて「興味がない」とご判断のかたはどうかそのまま看過していただきたい。
ここ数日、私はテレビ朝日で放映されている石原慎太郎氏原作の『弟』を興味深く視聴している。昨日は、同居人と並んで観ていた。以下はその折の会話だ。
私:「ここまで観てすごく感じるのは、石原慎太郎の弟へのものすごいこだわりかたなんだよね。彼は、弟のことを語りたくて、語りたくてたまらない。そうせずにはいられない。だったら、弟の裕次郎側から見た兄はどうだったんだろう、って考えてしまうな。あの世にいったら、そこのとこ裕次郎に聞いてみたい」
同居人:「俺は、裕次郎はそんなこと、聞かれたって一言も答えないと思うぞ。『んなこたぁ、言葉にしていうもんじゃねぇよ。じゃ、あばよ!』って感じかな」
私:「そうか。彼は自分の兄のことをすべて消化して、飲み込んでしまっているだろうからね。兄の側は、いまだに弟を消化できないんだ。だから、絶えず語りつづけていなければ弟という存在に引きずり込まれてしまうんだね」
同居人:「裕次郎は慎太郎に依存なんかしてないからな。逆は、実は、成り立たない」
私:「私、いままで石原慎太郎のこと個人的には嫌いだったけど、この番組見て変わったな。なんだか彼がすごく痛ましい存在に思えてきた」
「この番組見て変わったな」
私は昨夜、そう言った。だが、それは正確ではないような気が、今している。私が石原慎太郎氏を「嫌い」だったのは、彼の言動が思いつき的で場当たり的に見えるからでも、彼の主義思想が一見極端なナショナリズムであるからでもなかったのではないか、と自省しはじめているのだ。
私は彼のなかの「弟という存在に依存しつづけずにはいられない痛ましさ」を目にするのが苦しかったのかもしれない、とと。
日本人の常識から見れば、兄石原慎太郎氏は社会的成功者であり、弟裕次郎氏は多くの人々に鮮烈な記憶と日本のエンターティメント界に大きな記録を残す存在とは言え、自己管理の悪さから若くして亡くなった、ある意味での失敗者だ。
だがその弟は兄から自分というものを確立してしまい、兄はあの年齢に至るもまだあがき続けている。
私があえて北朝鮮に関するトピックでこの話題を持ち出したのは、石原兄弟のあいだに見える構図が日本と韓国および北朝鮮と通じ合うように思えるからだ。
南北両朝鮮民族が日本人への依存心に凝り固まって逃れられないでいることは明白だ。だが、世界的な成功を十分収めたはずのこの日本のなかに、朝鮮民族の「甘え」や「依存心」に過敏に反応し、それと同レベルの応答を繰り返すことで自ら彼らへの「依存心」に絡み取られていく人々がいるという現象。それが第3者にもたらす、呆れや失笑、軽蔑、憐れみ……(中国政府などは、これらの姿をみてさぞや笑っているに違いない)
私たち人間は、どうすれば真に他者から、あるいは他者への自分自身の思いから自由になれるのか。
私があの世で裕次郎氏に尋ねるべきなのは本当はそれかもしれない。
ここまで読まれて「興味がない」とご判断のかたはどうかそのまま看過していただきたい。
ここ数日、私はテレビ朝日で放映されている石原慎太郎氏原作の『弟』を興味深く視聴している。昨日は、同居人と並んで観ていた。以下はその折の会話だ。
私:「ここまで観てすごく感じるのは、石原慎太郎の弟へのものすごいこだわりかたなんだよね。彼は、弟のことを語りたくて、語りたくてたまらない。そうせずにはいられない。だったら、弟の裕次郎側から見た兄はどうだったんだろう、って考えてしまうな。あの世にいったら、そこのとこ裕次郎に聞いてみたい」
同居人:「俺は、裕次郎はそんなこと、聞かれたって一言も答えないと思うぞ。『んなこたぁ、言葉にしていうもんじゃねぇよ。じゃ、あばよ!』って感じかな」
私:「そうか。彼は自分の兄のことをすべて消化して、飲み込んでしまっているだろうからね。兄の側は、いまだに弟を消化できないんだ。だから、絶えず語りつづけていなければ弟という存在に引きずり込まれてしまうんだね」
同居人:「裕次郎は慎太郎に依存なんかしてないからな。逆は、実は、成り立たない」
私:「私、いままで石原慎太郎のこと個人的には嫌いだったけど、この番組見て変わったな。なんだか彼がすごく痛ましい存在に思えてきた」
「この番組見て変わったな」
私は昨夜、そう言った。だが、それは正確ではないような気が、今している。私が石原慎太郎氏を「嫌い」だったのは、彼の言動が思いつき的で場当たり的に見えるからでも、彼の主義思想が一見極端なナショナリズムであるからでもなかったのではないか、と自省しはじめているのだ。
私は彼のなかの「弟という存在に依存しつづけずにはいられない痛ましさ」を目にするのが苦しかったのかもしれない、とと。
日本人の常識から見れば、兄石原慎太郎氏は社会的成功者であり、弟裕次郎氏は多くの人々に鮮烈な記憶と日本のエンターティメント界に大きな記録を残す存在とは言え、自己管理の悪さから若くして亡くなった、ある意味での失敗者だ。
だがその弟は兄から自分というものを確立してしまい、兄はあの年齢に至るもまだあがき続けている。
私があえて北朝鮮に関するトピックでこの話題を持ち出したのは、石原兄弟のあいだに見える構図が日本と韓国および北朝鮮と通じ合うように思えるからだ。
南北両朝鮮民族が日本人への依存心に凝り固まって逃れられないでいることは明白だ。だが、世界的な成功を十分収めたはずのこの日本のなかに、朝鮮民族の「甘え」や「依存心」に過敏に反応し、それと同レベルの応答を繰り返すことで自ら彼らへの「依存心」に絡み取られていく人々がいるという現象。それが第3者にもたらす、呆れや失笑、軽蔑、憐れみ……(中国政府などは、これらの姿をみてさぞや笑っているに違いない)
私たち人間は、どうすれば真に他者から、あるいは他者への自分自身の思いから自由になれるのか。
私があの世で裕次郎氏に尋ねるべきなのは本当はそれかもしれない。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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