>「一杯の水」と「水道」
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/04/28 14:22 投稿番号: [17306 / 44985]
>なごやん殿
>いまある渇きを癒すのはいつ出来るかわからない「水道」ではなく、
「一杯の水」なんじゃ。
多分20年前の私なら、このたとえで納得できたでしょう。自分で、「一杯の水」を差し出す助けになれないかとあれこれ考えることもあったかもしれない。
そう思うと、年を取ったことの悲しさを感じます。
しかし後戻りはできませんから、対話を続けさせていただきます。
>「一杯の水」と「水道」
わしはどちらも重要だと思う。
「いまある渇き」がこれほどまでに切実になることが今回限りであるならば、たしかにまずは「一杯の水」です。しかし、現在の北朝鮮の状態から考えて、「いまある渇き」が無限に続くことは、ほぼ確実と明言できます。(必要とされるボルテージは多少下がるかもしれませんが)そして、国際社会は、無限に「一杯の水」を差し出すことはできないのです。
いえ、できたところですべきではありません。「一杯の水」に頼ることが常態化すれば、これはもう、北朝鮮国家ではなく、北朝鮮に住む朝鮮民族の精神的な死です。
加えて言えば、現在の北朝鮮の体制下では、「一杯の水」を真実必要としている人々に確実に届くかどうかの保証さえありません。そのような人々はおそらくなおざりにされ、当局が恣意的に選んだ人々にかろうじて行き渡る、というのがせいぜいだろうと思います。
そうである以上、なによりもまず当人達が、「水道を引け」と要求する声をあげるところからしかこの悲劇は終わりようがありません。
注:
私は、まったく同じ言葉を、いつの日か日本人自身が浴びることがあるかもしれないという覚悟のもとに書いています。
これは メッセージ 17282 (nagoyan_2shiki さん)への返信です.
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