彼女は忠実な仏人だった(>カミノテさん)
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/04/23 09:15 投稿番号: [16960 / 44985]
>気持ちとして十二分に理解できるんだったら、もし政府やその自治体がそんなこと言い出したら逆に評価すべきじゃないですか?
内面が政府やその自治体と一致してるのになぜ批判するという理性が働くのですか?
二つの理由があります。2番目から言わせてください。
「世界市民」どもを愚かしいと思い嫌悪する感情の持ち主である私は、一私人です。どのような感情を持とうが、ダイレクトには「世界市民」どもを利することも害することもありません。そして、公的な権限と責任を持つ政府や自治体の当事者がよしんば私と同等の感情を内面に抱いても、それはそれで正当な自由であり権利です。 しかし、その自らの感情に基づいて「行為」を彼らが働けば、それは彼らが行使できる権限と責任による「実効的な影響」をもたらします。つまり、公的存在が、自らの感情論で快く思わない人物達に不利益を働いたことになるのです。
このケースに限れば、この私と公的存在の感情や気持ちは一致しているから、私には不利益はないですよ。ですが、いつも私の利益と彼らの行為がもたらす実効的影響が一致するとは限らないでしょう? つまりは、一度先例を作れば、巡り巡ってそれはこの私そのものへ跳ね返ってくることになるのです。
ですから、たとえ自らの感情と一致する「行為」であったとしても、政府や自治体という公的存在が行う「行為」に関しては、私は理性的であるつもりです。
ですが、もっとも大きな理由は別にあります。
私は、「世界市民」と自称する連中を軽蔑していますが、その自分の感情が立派なものかどうかの「確信」が持てないのです。
以前に遠藤周作氏が書かれたものの中に、下のようなエピソードが紹介されていました。記憶が正確ではないので、あちこちで覚えまちがいをしていると思いますが、大まかにはこういうことです。
おそらく第1次世界大戦のほうだったと思うのですが、大戦の最中、あるフランスの農家のおかみさんが自分の家の納屋で重症を負ってうめいているドイツ軍の若い兵士を見つけたそうです。当時フランスとドイツは交戦状態ですから、当然おかみさんにはこの兵士を当局に突き出す義務があったわけです。彼女も、最初はそうしようと思ったでしょう。ですが、苦しんでいるドイツ兵を見かねて、おかみさんは怪我の手当てをし、食べ物を運んでこっそりかくまっていました。(最終的に彼をどうするつもりだったのかは、書かれていませんでした。私は、おかみさんはそこまでは考えていなかったし、考えないようにしていたのではと思います)
ところが、村人達にこのことが発覚してしまったのです。怒った村人達は、このドイツ兵ばかりではなくおかみさんまで広場に引きずり出し、リンチにかけて殺してしまったのでした。
今日、彼女が亡くなった広場だったか村の入り口だったかには、彼女の銅像が建ち台座にこう記されているそうです。
「あなたは、私達よりも忠実なフランス人だった。キリスト教徒だった。人間だった」(大意)
もし、自分がその村の一員でありおかみさんとドイツ兵に怒号を浴びせている場に居合せたら、私は、自分が足もとの石を拾って彼女に投げつけなかったと言い切る自信がないのです。
カミノテさんは、いかがでしょうか?
今回の邦人人質事件で、閣僚達が彼ら自身の自覚を問う発言をしたことが一部で批判されています。
私は、各閣僚達がどのような言葉を使い、どこまで言ったのかをじっと見ていました。私の知る限りもっとも厳しい言葉遣いをしたのは中川通産相だったと思いますが、その彼でさえ、日本政府の「行為」としてはこの状態のイラクに出かけていく邦人達に対しどうこうするとは言いませんでした。各人の内面の問題として自覚を促すというぎりぎりのラインを、きちんと守ったのです。
この事件に対する国民感情渦巻く中で、わが国の閣僚達が「行為」と「内面」を峻別する責任を自覚しているということを、一国民として自慢に思います。(そういう、「言葉遣いに対する計算能力がちゃんとある」という功利的な面も含めてね。彼らを批判している人々=人質どもを支援・利用していた人々にその能力がないということを、つくづく愚かだと冷笑しながら)
内面が政府やその自治体と一致してるのになぜ批判するという理性が働くのですか?
二つの理由があります。2番目から言わせてください。
「世界市民」どもを愚かしいと思い嫌悪する感情の持ち主である私は、一私人です。どのような感情を持とうが、ダイレクトには「世界市民」どもを利することも害することもありません。そして、公的な権限と責任を持つ政府や自治体の当事者がよしんば私と同等の感情を内面に抱いても、それはそれで正当な自由であり権利です。 しかし、その自らの感情に基づいて「行為」を彼らが働けば、それは彼らが行使できる権限と責任による「実効的な影響」をもたらします。つまり、公的存在が、自らの感情論で快く思わない人物達に不利益を働いたことになるのです。
このケースに限れば、この私と公的存在の感情や気持ちは一致しているから、私には不利益はないですよ。ですが、いつも私の利益と彼らの行為がもたらす実効的影響が一致するとは限らないでしょう? つまりは、一度先例を作れば、巡り巡ってそれはこの私そのものへ跳ね返ってくることになるのです。
ですから、たとえ自らの感情と一致する「行為」であったとしても、政府や自治体という公的存在が行う「行為」に関しては、私は理性的であるつもりです。
ですが、もっとも大きな理由は別にあります。
私は、「世界市民」と自称する連中を軽蔑していますが、その自分の感情が立派なものかどうかの「確信」が持てないのです。
以前に遠藤周作氏が書かれたものの中に、下のようなエピソードが紹介されていました。記憶が正確ではないので、あちこちで覚えまちがいをしていると思いますが、大まかにはこういうことです。
おそらく第1次世界大戦のほうだったと思うのですが、大戦の最中、あるフランスの農家のおかみさんが自分の家の納屋で重症を負ってうめいているドイツ軍の若い兵士を見つけたそうです。当時フランスとドイツは交戦状態ですから、当然おかみさんにはこの兵士を当局に突き出す義務があったわけです。彼女も、最初はそうしようと思ったでしょう。ですが、苦しんでいるドイツ兵を見かねて、おかみさんは怪我の手当てをし、食べ物を運んでこっそりかくまっていました。(最終的に彼をどうするつもりだったのかは、書かれていませんでした。私は、おかみさんはそこまでは考えていなかったし、考えないようにしていたのではと思います)
ところが、村人達にこのことが発覚してしまったのです。怒った村人達は、このドイツ兵ばかりではなくおかみさんまで広場に引きずり出し、リンチにかけて殺してしまったのでした。
今日、彼女が亡くなった広場だったか村の入り口だったかには、彼女の銅像が建ち台座にこう記されているそうです。
「あなたは、私達よりも忠実なフランス人だった。キリスト教徒だった。人間だった」(大意)
もし、自分がその村の一員でありおかみさんとドイツ兵に怒号を浴びせている場に居合せたら、私は、自分が足もとの石を拾って彼女に投げつけなかったと言い切る自信がないのです。
カミノテさんは、いかがでしょうか?
今回の邦人人質事件で、閣僚達が彼ら自身の自覚を問う発言をしたことが一部で批判されています。
私は、各閣僚達がどのような言葉を使い、どこまで言ったのかをじっと見ていました。私の知る限りもっとも厳しい言葉遣いをしたのは中川通産相だったと思いますが、その彼でさえ、日本政府の「行為」としてはこの状態のイラクに出かけていく邦人達に対しどうこうするとは言いませんでした。各人の内面の問題として自覚を促すというぎりぎりのラインを、きちんと守ったのです。
この事件に対する国民感情渦巻く中で、わが国の閣僚達が「行為」と「内面」を峻別する責任を自覚しているということを、一国民として自慢に思います。(そういう、「言葉遣いに対する計算能力がちゃんとある」という功利的な面も含めてね。彼らを批判している人々=人質どもを支援・利用していた人々にその能力がないということを、つくづく愚かだと冷笑しながら)
これは メッセージ 16917 (kaminote1976 さん)への返信です.
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