サンデーさん
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/03/30 17:26 投稿番号: [15734 / 44985]
こんにちは。
>(なんまいだー)
サンデーさんの自然な感覚では、「なんまいだー」なんだ。私は、「なんまんだーぶ」です。
たいしたことじゃないけど、やっぱりサンデーさんと私って同じ島国の土の上に暮らしているんだなぁ、とものすごく感じています、今さらですけど。昔『少林寺』という中国映画を観た時、「アーミーターパ」と登場人物がつぶやくたびに「南無阿弥陀仏」と字幕が現れ、ああ、「アーミーターパ」が中国語なんだと思いました。(今思うと梵語のような気もしますが)アーミーターパに比べれば、「なんまいだー」と「なんまんだーぶ」はほとんど二卵生双生児みたいですもんね。もとになっている宗派は違うのかもしれませんが。
>「また是非来てくださーい。サンデーとの約束よ!^^うふっ!」
(う・・・吐き気が・・・)
って言ってくださいますか?^^;
特に「うふっ!」を強調しておきます。(「サンデー」という言葉を出せば、脾臓に向かい合っていても即刻映像を縮小するのでは?)
>仮に私が彼女だったら、「先生タイプの日本人」に慣れはありません。
でも「日本人」には慣れがあります。
塾の先生は「在日」そのものに「慣れ」がありません。
息子が塾へ通う、その出発点はそれぞれが微妙に違うのだと思います。
横ですが。
多くの日本人は、北朝鮮はおろか韓国でさえもしばらく前(ソウルオリンピックごろまで)身近な存在ではありませんでした。その人々は小泉訪朝でいきなり「拉致問題」を突きつけられているわけです。また一部の日本人は、贖罪の対象としてしか朝鮮人(南北朝鮮の国民や在日)を印象付けられてきませんでした。(私のような、左系の人々の中で育った人間)一部の人々は、逆に、北朝鮮の内情の酷さを一足先にセンセーショナルな形で頭に焼きつけていたと思います。
どの人々も、サンデーさんやカミノテさんのような「普通の」在日に触れる機会がなかったのですね。言うまでもなく、直接身近に接している人達は別ですが。
「拉致問題」そのものは大変不幸なことですが、その余波で一般の在日と一般の日本人の対話が始まったことは(どんな形にせよ)不幸中の幸いだったと思います。
>そして日本人の先生対在日の息子、個人の壁は壊せても国籍の壁は壊せないない様な気がします。
>だからこそ、「慣れ」の中から本音で対話をする。
これかなぁ。。。
だって、慣れない相手と「本音で対話」なんてできないでしょう。
「壁」があることからは、目を背けられませんね。そして、国籍の壁は確かに厚いです。それは事実。そこから本音で対話をする。これが不可欠であるのは真実ですね。
以前から名前を挙げているSF作家のアーシュラ・ル・グィンが『闇の左手』という小説の中でこう書いています。
「だがそれ(友情が高まった愛)はわれわれのあいだの違いからくるもので類似からきているものではない、両者の違いからこの愛は生じているのだ。そして愛がそれ自体かけ橋なのだ。私たちを分っているものにかけわたす橋なのだ。」
私が今でもル・グィンを好きなのは、まさにこの文章のおかげかもしれません。(だから、八重七重さんにも、『闇の左手』をぜひどうぞと薦めました)
そして今、私は、在日と日本人の間にある「類似」と「相違」の間で揺れています。亀裂とかけ橋はコインの両面だと実感しながら……
>(なんまいだー)
サンデーさんの自然な感覚では、「なんまいだー」なんだ。私は、「なんまんだーぶ」です。
たいしたことじゃないけど、やっぱりサンデーさんと私って同じ島国の土の上に暮らしているんだなぁ、とものすごく感じています、今さらですけど。昔『少林寺』という中国映画を観た時、「アーミーターパ」と登場人物がつぶやくたびに「南無阿弥陀仏」と字幕が現れ、ああ、「アーミーターパ」が中国語なんだと思いました。(今思うと梵語のような気もしますが)アーミーターパに比べれば、「なんまいだー」と「なんまんだーぶ」はほとんど二卵生双生児みたいですもんね。もとになっている宗派は違うのかもしれませんが。
>「また是非来てくださーい。サンデーとの約束よ!^^うふっ!」
(う・・・吐き気が・・・)
って言ってくださいますか?^^;
特に「うふっ!」を強調しておきます。(「サンデー」という言葉を出せば、脾臓に向かい合っていても即刻映像を縮小するのでは?)
>仮に私が彼女だったら、「先生タイプの日本人」に慣れはありません。
でも「日本人」には慣れがあります。
塾の先生は「在日」そのものに「慣れ」がありません。
息子が塾へ通う、その出発点はそれぞれが微妙に違うのだと思います。
横ですが。
多くの日本人は、北朝鮮はおろか韓国でさえもしばらく前(ソウルオリンピックごろまで)身近な存在ではありませんでした。その人々は小泉訪朝でいきなり「拉致問題」を突きつけられているわけです。また一部の日本人は、贖罪の対象としてしか朝鮮人(南北朝鮮の国民や在日)を印象付けられてきませんでした。(私のような、左系の人々の中で育った人間)一部の人々は、逆に、北朝鮮の内情の酷さを一足先にセンセーショナルな形で頭に焼きつけていたと思います。
どの人々も、サンデーさんやカミノテさんのような「普通の」在日に触れる機会がなかったのですね。言うまでもなく、直接身近に接している人達は別ですが。
「拉致問題」そのものは大変不幸なことですが、その余波で一般の在日と一般の日本人の対話が始まったことは(どんな形にせよ)不幸中の幸いだったと思います。
>そして日本人の先生対在日の息子、個人の壁は壊せても国籍の壁は壊せないない様な気がします。
>だからこそ、「慣れ」の中から本音で対話をする。
これかなぁ。。。
だって、慣れない相手と「本音で対話」なんてできないでしょう。
「壁」があることからは、目を背けられませんね。そして、国籍の壁は確かに厚いです。それは事実。そこから本音で対話をする。これが不可欠であるのは真実ですね。
以前から名前を挙げているSF作家のアーシュラ・ル・グィンが『闇の左手』という小説の中でこう書いています。
「だがそれ(友情が高まった愛)はわれわれのあいだの違いからくるもので類似からきているものではない、両者の違いからこの愛は生じているのだ。そして愛がそれ自体かけ橋なのだ。私たちを分っているものにかけわたす橋なのだ。」
私が今でもル・グィンを好きなのは、まさにこの文章のおかげかもしれません。(だから、八重七重さんにも、『闇の左手』をぜひどうぞと薦めました)
そして今、私は、在日と日本人の間にある「類似」と「相違」の間で揺れています。亀裂とかけ橋はコインの両面だと実感しながら……
これは メッセージ 15706 (sunday7227 さん)への返信です.
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