牛肉とか、日露戦争とか
投稿者: lilasnosakukoro 投稿日時: 2004/03/06 16:00 投稿番号: [14566 / 44985]
>ヒューマンさん
>なくなって 初めて分かる 牛の良さ
確かにねェ。今のところ和牛の値段がそんなに上がってないから助かるけど、これからどうなるのかなぁ……
>日本軍が、アジア人も人間、という地位を確立したのは有名ですなぁ。
アジア人もやればできる、って証明したわけですからね。ある席で20世紀最大の歴史的出来事はなにか、と聞かれた時、しばらくう〜んと考え込みました。ナチス・ドイツ? ソ連邦の成立と崩壊? で、私は、「戦後日本の経済復興」と答えたんですが、それは実は日露戦争の時に目に見える形で始まったんですよね。
>それと、李舜臣は日本軍をコテンコテンにした、と書かれてますが、そこまでじゃないよ。実際、最初の会戦(海戦じゃないよ)以降は、一進一退。
李舜臣が圧倒的に有利だったのなら、とっくのとうに日本軍の補給線は断たれ、朝鮮に取り残された日本軍は干上がってるし。
あ、それはそうですね。もしあの時秀吉が死ななかったら、朝鮮戦役はもっとずるずる双方泥沼のまま続いていたでしょうから。
>清正についてった朝鮮人って金官?だったと思う。
金宦だそうです。下のサイトに、くわしく載ってます。史料を集める時に、私が多いに参考にしたサイトです。(ご存知かもしれないですが)
http://nikujiru.tripod.com/rekisi1.htm
以下、抜粋。
「本市の本妙寺が清正公の菩提寺で、そこに清正の墓・浄池廟がある。その北側に大木土佐守兼能(三千石の家老)の墓がある。清正が死んだ時、土佐守兼能は殉死したからである。そして南側にあるのが、「朝鮮人金宦墓」である。ほかに清正に殉死したものは沢山いたが、金宦だけは特別にこのような大きな目立つ所に墓を建てた。「金宦」とは会計職のことで、本名は良甫鑑という。熊本では「金宦さん」と親しまれ、香華の絶えることがない。清正に連行された朝鮮人が、なぜこのように熊本人から慕われているのか。「朝鮮史話 第一巻」(松田甲編、昭和二年刊)の中に紹介された「肥後國志」「続撰清正記」に基づいて述べてみたい。
良甫鑑(金宦)は文禄の役の時、清正の軍門に降った。その後は案内役になって、日本軍に貢献した。もともと彼は気概を持った人物だったから、李氏朝鮮の国政紊乱や人心の腐敗に耐えられなかった。それに比べて日本軍は志操堅固で義烈の風があった。特に清正の温情の厚さに感謝して熊本まで付き従った。
「李朝実録」によると、朝鮮側に投降した日本軍兵士は『数百をくだらず』とあり、中でも有名なのは沙也可(さやか、後に改名して金忠善)である。ところがその反対に日本側に投降して日本に協力した朝鮮人も多かったのである。熊本に住みついた金宦は、近習役として二百石を貰った。慶長十六年(1611)清正が亡くなると、彼は恩義に感じて殉死したのである。」
ヒューマン将軍の采配については、また別に〜
>なくなって 初めて分かる 牛の良さ
確かにねェ。今のところ和牛の値段がそんなに上がってないから助かるけど、これからどうなるのかなぁ……
>日本軍が、アジア人も人間、という地位を確立したのは有名ですなぁ。
アジア人もやればできる、って証明したわけですからね。ある席で20世紀最大の歴史的出来事はなにか、と聞かれた時、しばらくう〜んと考え込みました。ナチス・ドイツ? ソ連邦の成立と崩壊? で、私は、「戦後日本の経済復興」と答えたんですが、それは実は日露戦争の時に目に見える形で始まったんですよね。
>それと、李舜臣は日本軍をコテンコテンにした、と書かれてますが、そこまでじゃないよ。実際、最初の会戦(海戦じゃないよ)以降は、一進一退。
李舜臣が圧倒的に有利だったのなら、とっくのとうに日本軍の補給線は断たれ、朝鮮に取り残された日本軍は干上がってるし。
あ、それはそうですね。もしあの時秀吉が死ななかったら、朝鮮戦役はもっとずるずる双方泥沼のまま続いていたでしょうから。
>清正についてった朝鮮人って金官?だったと思う。
金宦だそうです。下のサイトに、くわしく載ってます。史料を集める時に、私が多いに参考にしたサイトです。(ご存知かもしれないですが)
http://nikujiru.tripod.com/rekisi1.htm
以下、抜粋。
「本市の本妙寺が清正公の菩提寺で、そこに清正の墓・浄池廟がある。その北側に大木土佐守兼能(三千石の家老)の墓がある。清正が死んだ時、土佐守兼能は殉死したからである。そして南側にあるのが、「朝鮮人金宦墓」である。ほかに清正に殉死したものは沢山いたが、金宦だけは特別にこのような大きな目立つ所に墓を建てた。「金宦」とは会計職のことで、本名は良甫鑑という。熊本では「金宦さん」と親しまれ、香華の絶えることがない。清正に連行された朝鮮人が、なぜこのように熊本人から慕われているのか。「朝鮮史話 第一巻」(松田甲編、昭和二年刊)の中に紹介された「肥後國志」「続撰清正記」に基づいて述べてみたい。
良甫鑑(金宦)は文禄の役の時、清正の軍門に降った。その後は案内役になって、日本軍に貢献した。もともと彼は気概を持った人物だったから、李氏朝鮮の国政紊乱や人心の腐敗に耐えられなかった。それに比べて日本軍は志操堅固で義烈の風があった。特に清正の温情の厚さに感謝して熊本まで付き従った。
「李朝実録」によると、朝鮮側に投降した日本軍兵士は『数百をくだらず』とあり、中でも有名なのは沙也可(さやか、後に改名して金忠善)である。ところがその反対に日本側に投降して日本に協力した朝鮮人も多かったのである。熊本に住みついた金宦は、近習役として二百石を貰った。慶長十六年(1611)清正が亡くなると、彼は恩義に感じて殉死したのである。」
ヒューマン将軍の采配については、また別に〜
これは メッセージ 14493 (worst_human83 さん)への返信です.
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