yotaro47j氏へ(トピずれ)
投稿者: yaenanae01 投稿日時: 2004/01/19 01:02 投稿番号: [11953 / 44985]
ご返信、ありがとう。
>
私は日常生活が「スッポリと抜け落ちた」または「日常生活が消えた」という所に広島・長崎の恐ろしさがあるのだと思っています。
>
一般の戦災者も悲惨ではありますが、「生活の否定」まではいかない。この広島・長崎の「虚無」は言葉にならない「人間の否定」でした。
本当にそうだろうか?
広島・長崎の悲劇が、「生活の否定」であり、「人間の否定」であることは、論を待たない。だが、一般の戦災―たとえれば、「○○大空襲」と呼ばれる戦災で、生活基盤一切を破壊され、身内を失い、自身も大火傷を負って後遺症に苦しむことになった人にとっては、やはり、自らの「生活」を「否定」され、自らの「人間性」を「否定」されたのでは?
私には、原爆によって身寄りを失い戦災孤児となった人(この人自身が被爆者ではないならば)と、「一般の戦災」で孤児となった人との間にある「悲劇性の差」など、わからない。
もし辛うじて差があるとしたら、それは、被害者側にあるのではなく、原爆を投下した、「加害者」側の意識の違い、かもしれない。
先に、ペルソナ氏や貴殿が言われたように、原爆投下は、「実験」の要素があったのだから。この一点においては、私は、少なくとも、当時の「普通の」爆弾投下と原爆投下の間には違いがあった、と納得できる。
これは メッセージ 11838 (yotaro47j さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019565/kldabaaf_1/11953.html