ドラッカーと明治維新と文民統制
投稿者: kanewatenkano 投稿日時: 2006/10/19 22:08 投稿番号: [13294 / 43252]
このレス先に経済学者のガルブレイスと書いていたが
自分のトピを見ていたらピーター・ドラッカーが正しかった
ピーター・ドラッカーと文民統制
2005/ 2/ 5 8:59 [ No.11149 / 18799 ]
投稿者 :kanewatenkano
日経の今月の「私の履歴書」はピーター・ドラッカーである
昔々その昔 彼の「断絶の時代」というのを読んだことがある
今でもこの本は持っていると思うが
書いてある内容は殆ど忘れてしまった
ただ1つ記憶にあるのは
ピーター・ドラッカーはその本の中で
日本の明治維新を高く評価していたのではなかったろうか
以前このトピで
「戦争は 政治首脳部を差し置き 軍部が突出するから起きる」
みたいなことを書いたことがあった
言葉を変えれば
「シビリアンコントロール(文民統制)が出来ないから戦争が生じる」
ってこと
このピーター・ドラッカーは4歳の時に ウィーンにいて、第一次世界大戦を体験している
第一次世界大戦もまたシビリアン・コントロールが出来なかったという証左なのだろうか
以下 日経2日「私の履歴書」から抜粋
私が生まれたのは1909年11月19日、第一次世界大戦が始まる5年前のウィーン。今はアルプスの小国オーストリアの首都で、もっぱら「音楽の都」として知られている。とても国際政治の中心にはなれないが、当時は数百年にわたって欧州に君臨したハプスブルク家が支配し、人口は5千万人に達する大国オーストリア・ハンガリー2重帝国の首都だった。
(略)1914年6月、大戦の引き金となる事件が起きた。帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子が、セルビアのサラエボで暗殺されたのだ。外国貿易商の長官として帝国政府内で影響力を持っていた父は、家族を連れてウィーンへ戻らなければならなくなった。
父は平和主義者として知られていた。財務省の高官で同じ平和主義者の友人から「軍部がむちゃな戦争を起こさないよう説得工作に協力してほしい」と頼まれ、快諾。ウィーンでは大臣や政治家の説得に乗り出したり、側近を通じてフランツ・ヨーゼフ皇帝に直訴したりした。
しかし、それは徒労に終わった。息子を失い、80歳を超えていた皇帝にはもはや軍部を抑える気力もなく、帝国は独立国のセルビアに宣戦布告。セルビアを支援するロシアなどが黙っているはずはなかった。ついに大戦の火ぶたが切って落とされた。
(略)大戦勃発時に私には帝国の首都に生まれたという意識はこれっぽっちもなく、ウィーンの外の世界に関心を持つようになったのは大戦後の9歳か10歳になってから。その時には、アドリア海からロシア国境まで広大な領土を持っていたハプスブルク帝国は敗北し、解体され、もうなくなっていた。
自分のトピを見ていたらピーター・ドラッカーが正しかった
ピーター・ドラッカーと文民統制
2005/ 2/ 5 8:59 [ No.11149 / 18799 ]
投稿者 :kanewatenkano
日経の今月の「私の履歴書」はピーター・ドラッカーである
昔々その昔 彼の「断絶の時代」というのを読んだことがある
今でもこの本は持っていると思うが
書いてある内容は殆ど忘れてしまった
ただ1つ記憶にあるのは
ピーター・ドラッカーはその本の中で
日本の明治維新を高く評価していたのではなかったろうか
以前このトピで
「戦争は 政治首脳部を差し置き 軍部が突出するから起きる」
みたいなことを書いたことがあった
言葉を変えれば
「シビリアンコントロール(文民統制)が出来ないから戦争が生じる」
ってこと
このピーター・ドラッカーは4歳の時に ウィーンにいて、第一次世界大戦を体験している
第一次世界大戦もまたシビリアン・コントロールが出来なかったという証左なのだろうか
以下 日経2日「私の履歴書」から抜粋
私が生まれたのは1909年11月19日、第一次世界大戦が始まる5年前のウィーン。今はアルプスの小国オーストリアの首都で、もっぱら「音楽の都」として知られている。とても国際政治の中心にはなれないが、当時は数百年にわたって欧州に君臨したハプスブルク家が支配し、人口は5千万人に達する大国オーストリア・ハンガリー2重帝国の首都だった。
(略)1914年6月、大戦の引き金となる事件が起きた。帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント皇太子が、セルビアのサラエボで暗殺されたのだ。外国貿易商の長官として帝国政府内で影響力を持っていた父は、家族を連れてウィーンへ戻らなければならなくなった。
父は平和主義者として知られていた。財務省の高官で同じ平和主義者の友人から「軍部がむちゃな戦争を起こさないよう説得工作に協力してほしい」と頼まれ、快諾。ウィーンでは大臣や政治家の説得に乗り出したり、側近を通じてフランツ・ヨーゼフ皇帝に直訴したりした。
しかし、それは徒労に終わった。息子を失い、80歳を超えていた皇帝にはもはや軍部を抑える気力もなく、帝国は独立国のセルビアに宣戦布告。セルビアを支援するロシアなどが黙っているはずはなかった。ついに大戦の火ぶたが切って落とされた。
(略)大戦勃発時に私には帝国の首都に生まれたという意識はこれっぽっちもなく、ウィーンの外の世界に関心を持つようになったのは大戦後の9歳か10歳になってから。その時には、アドリア海からロシア国境まで広大な領土を持っていたハプスブルク帝国は敗北し、解体され、もうなくなっていた。
これは メッセージ 12715 (kanewatenkano さん)への返信です.
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