Re: 南北問題 関係<転載>
投稿者: boston_red_socks_xx 投稿日時: 2007/09/24 10:33 投稿番号: [168 / 265]
世界で知られるように、朝鮮はずっと中国の『属国』だった。
記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っており、留学経験のある朝鮮人にも 自ら属国であったことを認めている者もいる。そもそも韓国の古い国旗にまで 「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない。
しかし韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたかった。
古い国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という
文字をカットして報道したほどである。
実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係がある。
まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。
朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位だった。
そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、 下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、 朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、 朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたことが、「渓陰漫筆」に書かれている。
そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けたと嘆いている。
(黄文雄『韓国は日本人が作った』徳間書店)
服装も違ったし、籠にも乗れなかった。
身分が「最も低い」のだからしかたない。
身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になる。
・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉が、たった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、 年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けている。
朝鮮国内にもその名残がある。 現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられたが、昔その場所には『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を 地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という屈辱的な隷属の象徴の門だった。この迎恩門で『朝鮮の国王』が、 土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。
朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。
この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、 彼ら朝鮮民族の『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。
朝鮮民族の民族気質を簡単に説明するには、 朝鮮人の名前が「金(キム)」や「朴(パク)」などのように ワンパターンになった理由を説明するのがわかりやすい。
1.朝鮮人は長い間中国の属国として低い身分にあったため、低い身分の者や 貧困者、弱者、ひいては身障者などへの虐待を「下の者が下に見られるのは、仕方のないこと、上の者が下の者を見下すのは当然のこと」と考える民族的 傾向が定着していた。屈辱を「当然」と考えなければ精神的に乗り越えられないほど、千年の隷属というのは長かった。
2.朝鮮は虐げられる者の反動として、より低い者を虐げる「貴族社会」が
長く続いた。そのため、家系が悪ければ努力はほとんど無意味だった。
貴族が裕福なのも、奴隷が貧しいのも、生まれた家に決定された。
3.やがて低い身分にある者が「自分の先祖は名門だった」と思いたくなり、 いつしか「偽の家系図を買う」または「家系図を書き換える」ことで底辺で虐げられる身分から一発逆転を果たすことが流行してしまった。
4.その結果、皆が「限られた同じ名門(両班という)の名前」になり、形の上では皆が同じ名門の家系出身の者ということになった。逆に底辺(白丁という)の出身者は歴史の闇へと消えていった。現在、どの韓国人に聞いても「私は由緒ある両班の出身だ!」と答える。今はもう白丁の子孫であってもその自覚すらなくなっている。
記録や物的証拠も国内外に数え切れないほど残っており、留学経験のある朝鮮人にも 自ら属国であったことを認めている者もいる。そもそも韓国の古い国旗にまで 「大清国属(清=中国)」と書いてあったのだから属国だったことは否定しようがない。
しかし韓国は国家レベルで「属国だった過去」を消し去りたかった。
古い国旗が発見された時も、韓国国内のニュースでは「大清国属」という
文字をカットして報道したほどである。
実はこの韓国の感情的問題は「反日」に密接な関係がある。
まず、朝鮮と清(中国)がどの程度の従属関係だったか。
朝鮮というのは、中国の属国の中でも琉球(現在の沖縄)よりも低い地位だった。
そもそも、中国の属邦の中でも朝鮮の地位は最も低く、 下国のなかの下国であった。
天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、 朝鮮の使臣だけは異色の丸首の衣である。
また、琉球の使臣は籠に乗って宮廷に入るのに対し、 朝鮮の使臣は籠に乗ることを禁じられていたことが、「渓陰漫筆」に書かれている。
そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けたと嘆いている。
(黄文雄『韓国は日本人が作った』徳間書店)
服装も違ったし、籠にも乗れなかった。
身分が「最も低い」のだからしかたない。
身分の低さは朝鮮がどんな扱いを受けていたかを見ればより明白になる。
・朝鮮国王は清の皇帝によって任命される。
・朝鮮国内の事件は全て皇帝に報告しなければならない。
・朝鮮国王は清の使節をソウル城門まで出迎えなければならない。
・朝鮮国王の地位は、清国の廷臣よりも下。
・朝鮮政府には、貨幣の鋳造権すら与えられてない。
・朝鮮政府には清国への食糧、兵士提供の要求権もない。
・朝鮮は清国に細かく定められた貢品を出す以外に、毎年、牛3000頭、
馬3000頭、各地の美女3000人を選り抜いて貢がなければならない。
朝鮮国王が宗主国の清国皇帝に奉呈した貢文に気に入らない言葉が、たった一つあっただけで、朝鮮国王は銀1万両を罰金として払った上に、 年貢への見返りを3年間停止するという厳しい処罰を受けている。
朝鮮国内にもその名残がある。 現在ソウルの城門のあった場所には「独立門」というものが建てられたが、昔その場所には『迎恩門』という門があり、それは「朝鮮王が9回頭を 地面に叩きつけて擦りつけ、ひれ伏して清の使者を迎える」という屈辱的な隷属の象徴の門だった。この迎恩門で『朝鮮の国王』が、 土下座して出迎えたのは、中国の「王」ではなく中国の『使者』である。
朝鮮はそれほどまでに国家として“下”にみられていたのだ。
この1000年に渡る奴隷のごとき低い扱いは、 彼ら朝鮮民族の『民族気質』に深刻な影響を与えることになる。
朝鮮民族の民族気質を簡単に説明するには、 朝鮮人の名前が「金(キム)」や「朴(パク)」などのように ワンパターンになった理由を説明するのがわかりやすい。
1.朝鮮人は長い間中国の属国として低い身分にあったため、低い身分の者や 貧困者、弱者、ひいては身障者などへの虐待を「下の者が下に見られるのは、仕方のないこと、上の者が下の者を見下すのは当然のこと」と考える民族的 傾向が定着していた。屈辱を「当然」と考えなければ精神的に乗り越えられないほど、千年の隷属というのは長かった。
2.朝鮮は虐げられる者の反動として、より低い者を虐げる「貴族社会」が
長く続いた。そのため、家系が悪ければ努力はほとんど無意味だった。
貴族が裕福なのも、奴隷が貧しいのも、生まれた家に決定された。
3.やがて低い身分にある者が「自分の先祖は名門だった」と思いたくなり、 いつしか「偽の家系図を買う」または「家系図を書き換える」ことで底辺で虐げられる身分から一発逆転を果たすことが流行してしまった。
4.その結果、皆が「限られた同じ名門(両班という)の名前」になり、形の上では皆が同じ名門の家系出身の者ということになった。逆に底辺(白丁という)の出身者は歴史の闇へと消えていった。現在、どの韓国人に聞いても「私は由緒ある両班の出身だ!」と答える。今はもう白丁の子孫であってもその自覚すらなくなっている。
これは メッセージ 167 (boston_red_socks_xx さん)への返信です.
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