lcbリーさんへ フィリピンのこと①
投稿者: bell45a 投稿日時: 2005/04/19 12:30 投稿番号: [9987 / 85019]
我が友リーさん、お返事ありがとう。何回か読み返した。考えるところがあった。
ところで、フィリピンにまた行くそうだね。
私もフィリピンにも一年弱、滞在していたことがある。マニラだけではなくて、本島の色々なところを訪問した。セブ島もパラワンも、バカロド、イロイロ、ナガなど、思い出がいっぱいある。全体的に、華僑系の人までも親日で、楽しい思い出が多い。
リーさんは、リサール記念公園とか、アギナルド記念館とか、独立の英雄達の記念の場所を訪れたことがあるだろうか?
或いは戦後初の大統領となった、マニュエル・ロハスの伝記とかを読んだだろうか?
ロハスは、反米の民族主義者で、戦後、米軍が戻ってきても『統治者たることは必要ない。フィリピンは誰にも支配されない。反日とは思わないでほしい』といって、1946年に独立を勝ち取った。その前に、既に日本軍がいた時にも独立しているので、初代の大統領ではないが。
この人の伝記には、必ず出てくる日本人がいる。
それは、神保信彦(じんぼ・のぶひこ)帝国陸軍中佐だ。
ロハスは、民族主義者として、日本軍の侵攻にも、『フィリピン本土への外国人の上陸は許さない』と言って、古い武器で戦った。勿論、日本軍の敵ではなく、すぐに2万人の部下と降伏した。
ロハスは、尋問に当たった神保中佐に『自分は、米国のために戦っているのではない。フィリピンのために戦っている。日本の天皇陛下を尊敬している。リサール以来、フィリピンの民族主義者は日本人を尊敬している』と語り、神保中佐も感動して、ロハスに捕虜の管理一切を任せた。すぐに解放され、問題はまったく起こらなかった。
神保中佐は、その後、フィリピンから転属になり、中国大陸で、国民党軍との戦闘に長く明け暮れたが、戦後、蒋介石の戦争犯罪人収容所に入れられ、死刑が決定した。
それを連合軍から聞いた時、まだロハスは大統領に就任して、一週間も経っていなかったが、急遽、大統領として、最初の公務として、神保信彦救出の助命嘆願を蒋介石に正式に大統領として行った。それは今も勿論、フィリピンに記録が残っている。
手紙の内容だ。
『これは、私が大統領になって、初めて出す公用外交文である。しかし、個人的なものでもあるが、ご理解いただけるものと信じている。
自分が、自分の部下が生きていて、大統領になったのも、神保信彦のお陰である。
彼は、人道的で、フィリピンでは、フィリピン人のために尽くした。どうか釈放していただきたい』
これは、フィリピン政府としての正式照会、依頼であり、首脳間の親書であるから、一番効力がある。
神保中佐は無罪放免に変えられ、1947年、東京に帰還し、『真の友情』を語り、感謝の手紙を送った。一方のロハスはさらに、神保の生活は大丈夫か?と心配する手紙を送った。
その直後にロハスは急死した。大統領になって、初めての手紙と、最後の手紙が神保に宛てたものだった。
神保は感謝の気持ちを籠めて、日本リサール協会の理事長を勤めた。
1995年、フィリピンのラモス大統領は、ロハスとの友情を記念して、神保中佐の未亡人に感謝状を出した。
この話しは、日本でも、フィリピンに関係する人は、大体詳しく知っている。
韓国では、絶対にどこにも書かれていない話しだろう。
日本とフィリピンの関係は、単純ではない。
ところで、フィリピンにまた行くそうだね。
私もフィリピンにも一年弱、滞在していたことがある。マニラだけではなくて、本島の色々なところを訪問した。セブ島もパラワンも、バカロド、イロイロ、ナガなど、思い出がいっぱいある。全体的に、華僑系の人までも親日で、楽しい思い出が多い。
リーさんは、リサール記念公園とか、アギナルド記念館とか、独立の英雄達の記念の場所を訪れたことがあるだろうか?
或いは戦後初の大統領となった、マニュエル・ロハスの伝記とかを読んだだろうか?
ロハスは、反米の民族主義者で、戦後、米軍が戻ってきても『統治者たることは必要ない。フィリピンは誰にも支配されない。反日とは思わないでほしい』といって、1946年に独立を勝ち取った。その前に、既に日本軍がいた時にも独立しているので、初代の大統領ではないが。
この人の伝記には、必ず出てくる日本人がいる。
それは、神保信彦(じんぼ・のぶひこ)帝国陸軍中佐だ。
ロハスは、民族主義者として、日本軍の侵攻にも、『フィリピン本土への外国人の上陸は許さない』と言って、古い武器で戦った。勿論、日本軍の敵ではなく、すぐに2万人の部下と降伏した。
ロハスは、尋問に当たった神保中佐に『自分は、米国のために戦っているのではない。フィリピンのために戦っている。日本の天皇陛下を尊敬している。リサール以来、フィリピンの民族主義者は日本人を尊敬している』と語り、神保中佐も感動して、ロハスに捕虜の管理一切を任せた。すぐに解放され、問題はまったく起こらなかった。
神保中佐は、その後、フィリピンから転属になり、中国大陸で、国民党軍との戦闘に長く明け暮れたが、戦後、蒋介石の戦争犯罪人収容所に入れられ、死刑が決定した。
それを連合軍から聞いた時、まだロハスは大統領に就任して、一週間も経っていなかったが、急遽、大統領として、最初の公務として、神保信彦救出の助命嘆願を蒋介石に正式に大統領として行った。それは今も勿論、フィリピンに記録が残っている。
手紙の内容だ。
『これは、私が大統領になって、初めて出す公用外交文である。しかし、個人的なものでもあるが、ご理解いただけるものと信じている。
自分が、自分の部下が生きていて、大統領になったのも、神保信彦のお陰である。
彼は、人道的で、フィリピンでは、フィリピン人のために尽くした。どうか釈放していただきたい』
これは、フィリピン政府としての正式照会、依頼であり、首脳間の親書であるから、一番効力がある。
神保中佐は無罪放免に変えられ、1947年、東京に帰還し、『真の友情』を語り、感謝の手紙を送った。一方のロハスはさらに、神保の生活は大丈夫か?と心配する手紙を送った。
その直後にロハスは急死した。大統領になって、初めての手紙と、最後の手紙が神保に宛てたものだった。
神保は感謝の気持ちを籠めて、日本リサール協会の理事長を勤めた。
1995年、フィリピンのラモス大統領は、ロハスとの友情を記念して、神保中佐の未亡人に感謝状を出した。
この話しは、日本でも、フィリピンに関係する人は、大体詳しく知っている。
韓国では、絶対にどこにも書かれていない話しだろう。
日本とフィリピンの関係は、単純ではない。
これは メッセージ 9859 (lcb2100_99 さん)への返信です.
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