許浚と東医宝鑑 とは その2
投稿者: elgfaret 投稿日時: 2007/11/28 06:47 投稿番号: [61024 / 85019]
このように辞典のようになっている東医宝鑑はいつでも簡単に疾病に対する治療法を探すことができます。当時は朝鮮はもちろん、中国、日本でも大きな人気を得た理由の1つが、この実用性でした。東医宝鑑は韓国人の書いた本としては外国で最も多く刊行された本となります。特に中国と日本で人気を得ましたが、日本では1662年3月使臣を送り 東医宝鑑を持ち帰った後、医学者たちにこれを広く読ませて、1724年には京都版の 東医宝鑑を発行しました。 記録によれば、 東医宝鑑が中国で最初に刊行されたのは1763年。最初の刊行後、 東医宝鑑は中国医員の好評を得て、その後も16回も刊行されました。さらに20世紀になってからはドイツでも翻訳出版され、英訳本も刊行されています。
東医宝鑑の臓器についての描写は非常に正確です。そのために「小説 東医宝鑑」では 許浚の師匠のユ・イテ が弟子の医学の勉強のために自らの遺体を解剖用にさしだすという話が登場します。解剖もせずにこんなに詳しく知ることはできないという推測からでした。しかし東医宝鑑が編纂された17世紀の朝鮮時代。親からもらった体に傷をつけてはならないという儒教の観念が強かった時代でした。小説のエピソードは小説の話に過ぎない可能性が高いと言えます。それでは彼はどうやって身体の内部をあんなにも知っていたのでしょう。彼が内医員として活躍した時代は日本との壬申和乱の7年間の戦乱がおきていた時代でした。あちこちに死体が山のように転がっていたことでしょう。彼は死体を見て人間の内臓を描いた可能性が高いといえます。
現代でも韓医師たちはこの本を基本的に勉強し、それにもとづいて疾病診療をしています。過去に比べて疾病が複雑、多様になったとはいえ、それでも 東医宝鑑は中心であり、そこに若干の補強をして治療をしています。
ソース
KBS
WORLD
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