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Re: 秀吉は朝鮮を侵略したのか?

投稿者: nayamimuyou200610 投稿日時: 2007/05/16 06:48 投稿番号: [41798 / 85019]
>何故、秀吉は兵を出したのかということです。
それは、天文16年(1547年)の勘合船による貿易を最後に、明との正式な国交が失われていたので、秀吉は倭寇のような私貿易を取り締まる一方で、通商関係を復活させようと考えていたからです。そこで、交渉の仲介者になってくれと朝鮮に頼んだのですが、それを朝鮮側が峻拒した。ここから話がこじれていきます。大事なのは秀吉の意識にあったのは、あくまで明との関係だということです。ここが大きなポイントです。朝鮮に対する侵略欲に駆られたという、最大にして唯一であろう理由がここで消えます。<

1587(天正15)年5月、島津を降し九州を平定した秀吉は、対馬の宗を通して朝鮮に服属要求をつきつける。朝鮮への書簡では、「しからば国王日域に参洛有るに於いては、諸篇先規のごとくたるべく候、もし遅滞有らば、即時に渡海を仰せ出され、御誅罰を加えられるべく候」(1587年6月15日付け、「宗家文書」)と、高麗国王の京都の天皇のもとへの出仕による服属の形を要求している。もしぐずぐずするならば、ただちに兵を派遣し、成敗するという高圧的なものであった。

>日本から明に行くには、どうしても朝鮮を通らなければならない。そこで、「仲介してくれなければ、日本はどうしても朝鮮を通ることになる。道案内をしてもらうことになる」という警告を前もって与えています。しかし、朝鮮はこれを無視、黙殺します。日本という国の実情や武力もロクに調べず放置していたという、知的怠惰を露呈します。同じようなことが日清戦争直前でも起こります。<

朝鮮国王を参洛させるために使節を派遣せよという、秀吉の宗への命令はなかなか実現しなかった。それは日本・朝鮮に両属する対馬の宗が、両者の抜き差しならない対立を最も恐れていたからである。また宗の使節が朝鮮で交渉に入っても、朝鮮側は、日本を簒弑の国とみなして、日本への通信使派遣をしぶった。朝鮮通信使がようやく聚楽第で秀吉に謁したのは、1590年11月7日である。これは秀吉の全国統一を祝賀するものであったが、秀吉は服属使節と誤解する。その後、宗は朝鮮側にしつこく「明に入るので朝鮮の道を借りたい」という「仮途入明」を要求する。これも秀吉の「征明きょう導」を宗がかってにすり替えたものである。帰国した使節団の報告では、西人派(正使の黄允吉は戦争を警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略を否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。

>で、肝心の戦闘ですが、文禄の役(1592年)では、釜山を1日で制圧し、僅か3週間で、首都・漢城を陥落させ、つづいて平壌をも占領します。幾らなんでも速すぎますが、戦闘と呼べる代物が無かったことの証左でもありますし、各地で、怒りの矛先を支配階級等に向けた民衆蜂起が起きます。加藤清正や小西行長が漢城に入城すると、朝鮮の民衆は「自分たちを長年苦しめてきたのは、朝鮮王室だ」と言って、役所にあった書類や図書などを全て焼き尽くすなど、むしろ民衆レベルでは日本軍を歓迎していたのです。結果的とは言え、進軍をアシストしていたのです。ここがキモです。秀吉軍を天佑だと思った民衆が確実に存在しました。彼ら(含・子孫)の罪と罰はどうなるんでしょ?流石に逃げ出した王族たちは明に援軍を頼もうとしますが、「明の方が秀吉軍よりもずっと悪質だから、何をしでかすか分からない」という反対論も出て、結局、全土が攻略される直前まで、明に救援を頼まず、それまでは抵抗らしい抵抗は無かった。戦争らしくなるのは、明の派遣軍。コリア流に言えば「上軍」が現れてからです。国の一大事に、最高責任者は殆ど何も出来ず。というのもポイント。再び歴史は繰り返すか。

字数オーバーになりますので、戦闘の詳細は下記URLで参照下さい。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
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