秀吉は朝鮮を侵略したのか?
投稿者: chonmage_johney 投稿日時: 2007/05/15 23:46 投稿番号: [41786 / 85019]
という検証が、きちんとなされないうちに、偏った情報のみを鵜呑みにすると、極めて自己満足的で偽善的なイベントになる。友好という美名の為ならなんでもあり。そして、友好を目的にすると、極めて恣意的なものに堕すという典型でしょう。友好とは、あくまで結果として齎されるものでなければなりません。
で、本題
何故、秀吉は兵を出したのかということです。
それは、天文16年(1547年)の勘合船による貿易を最後に、明との正式な国交が失われていたので、秀吉は倭寇のような私貿易を取り締まる一方で、通商関係を復活させようと考えていたからです。そこで、交渉の仲介者になってくれと朝鮮に頼んだのですが、それを朝鮮側が峻拒した。ここから話がこじれていきます。大事なのは秀吉の意識にあったのは、あくまで明との関係だということです。ここが大きなポイントです。朝鮮に対する侵略欲に駆られたという、最大にして唯一であろう理由がここで消えます。
日本から明に行くには、どうしても朝鮮を通らなければならない。そこで、「仲介してくれなければ、日本はどうしても朝鮮を通ることになる。道案内をしてもらうことになる」という警告を前もって与えています。しかし、朝鮮はこれを無視、黙殺します。日本という国の実情や武力もロクに調べず放置していたという、知的怠惰を露呈します。同じようなことが日清戦争直前でも起こります。
で、肝心の戦闘ですが、
文禄の役(1592年)では、釜山を1日で制圧し、僅か3週間で、首都・漢城を陥落させ、つづいて平壌をも占領します。幾らなんでも速すぎますが、戦闘と呼べる代物が無かったことの証左でもありますし、各地で、怒りの矛先を支配階級等に向けた民衆蜂起が起きます。加藤清正や小西行長が漢城に入城すると、朝鮮の民衆は「自分たちを長年苦しめてきたのは、朝鮮王室だ」と言って、役所にあった書類や図書などを全て焼き尽くすなど、むしろ民衆レベルでは日本軍を歓迎していたのです。結果的とは言え、進軍をアシストしていたのです。ここがキモです。秀吉軍を天佑だと思った民衆が確実に存在しました。彼ら(含・子孫)の罪と罰はどうなるんでしょ?
流石に逃げ出した王族たちは明に援軍を頼もうとしますが、「明の方が秀吉軍よりもずっと悪質だから、何をしでかすか分からない」という反対論も出て、結局、全土が攻略される直前まで、明に救援を頼まず、それまでは抵抗らしい抵抗は無かった。戦争らしくなるのは、明の派遣軍。コリア流に言えば「上軍」が現れてからです。国の一大事に、最高責任者は殆ど何も出来ず。というのもポイント。再び歴史は繰り返すか。
ですから、秀吉は朝鮮ではなく、明と戦ったというのが事実に近いのです。
こう書くと、李舜臣(←日本海海戦で参謀を務めた秋山真之によって再発見されたのをお忘れなく)はどうなんだ。ということになるでしょう。
ま、弱くはないという評価が妥当でしょう。本当に強ければ、秀吉軍は上陸できません。日本の当時の海軍力は、決して低くありません。信長は鉄鋼船などを開発していますし、九鬼水軍という集団もありました。既に倭寇として海外貿易にも乗り出しているから当然です。それ故、「朝鮮の海上勢力は大したことはない」と、秀吉に油断があったのも無理なからぬところです。
とは言え、李舜臣は露梁の戦いで戦死していますので、押し捲られていたわけではありません。
慶長の役では、多少民間レベルでも抵抗が起こったようです。
しかし、文禄の役では何もできなかったのです。
ここまで書けば、秀吉の朝鮮出兵のいきさつと、戦闘における朝鮮民族の本当の姿がお分かりになったかと思います。
《参考文献》
『こんな「歴史」に誰がした』 クレスト社 渡部昇一・谷沢永一
『日本・中国・韓国の歴史と問題点80』 ブックマン社 竹内睦泰
で、本題
何故、秀吉は兵を出したのかということです。
それは、天文16年(1547年)の勘合船による貿易を最後に、明との正式な国交が失われていたので、秀吉は倭寇のような私貿易を取り締まる一方で、通商関係を復活させようと考えていたからです。そこで、交渉の仲介者になってくれと朝鮮に頼んだのですが、それを朝鮮側が峻拒した。ここから話がこじれていきます。大事なのは秀吉の意識にあったのは、あくまで明との関係だということです。ここが大きなポイントです。朝鮮に対する侵略欲に駆られたという、最大にして唯一であろう理由がここで消えます。
日本から明に行くには、どうしても朝鮮を通らなければならない。そこで、「仲介してくれなければ、日本はどうしても朝鮮を通ることになる。道案内をしてもらうことになる」という警告を前もって与えています。しかし、朝鮮はこれを無視、黙殺します。日本という国の実情や武力もロクに調べず放置していたという、知的怠惰を露呈します。同じようなことが日清戦争直前でも起こります。
で、肝心の戦闘ですが、
文禄の役(1592年)では、釜山を1日で制圧し、僅か3週間で、首都・漢城を陥落させ、つづいて平壌をも占領します。幾らなんでも速すぎますが、戦闘と呼べる代物が無かったことの証左でもありますし、各地で、怒りの矛先を支配階級等に向けた民衆蜂起が起きます。加藤清正や小西行長が漢城に入城すると、朝鮮の民衆は「自分たちを長年苦しめてきたのは、朝鮮王室だ」と言って、役所にあった書類や図書などを全て焼き尽くすなど、むしろ民衆レベルでは日本軍を歓迎していたのです。結果的とは言え、進軍をアシストしていたのです。ここがキモです。秀吉軍を天佑だと思った民衆が確実に存在しました。彼ら(含・子孫)の罪と罰はどうなるんでしょ?
流石に逃げ出した王族たちは明に援軍を頼もうとしますが、「明の方が秀吉軍よりもずっと悪質だから、何をしでかすか分からない」という反対論も出て、結局、全土が攻略される直前まで、明に救援を頼まず、それまでは抵抗らしい抵抗は無かった。戦争らしくなるのは、明の派遣軍。コリア流に言えば「上軍」が現れてからです。国の一大事に、最高責任者は殆ど何も出来ず。というのもポイント。再び歴史は繰り返すか。
ですから、秀吉は朝鮮ではなく、明と戦ったというのが事実に近いのです。
こう書くと、李舜臣(←日本海海戦で参謀を務めた秋山真之によって再発見されたのをお忘れなく)はどうなんだ。ということになるでしょう。
ま、弱くはないという評価が妥当でしょう。本当に強ければ、秀吉軍は上陸できません。日本の当時の海軍力は、決して低くありません。信長は鉄鋼船などを開発していますし、九鬼水軍という集団もありました。既に倭寇として海外貿易にも乗り出しているから当然です。それ故、「朝鮮の海上勢力は大したことはない」と、秀吉に油断があったのも無理なからぬところです。
とは言え、李舜臣は露梁の戦いで戦死していますので、押し捲られていたわけではありません。
慶長の役では、多少民間レベルでも抵抗が起こったようです。
しかし、文禄の役では何もできなかったのです。
ここまで書けば、秀吉の朝鮮出兵のいきさつと、戦闘における朝鮮民族の本当の姿がお分かりになったかと思います。
《参考文献》
『こんな「歴史」に誰がした』 クレスト社 渡部昇一・谷沢永一
『日本・中国・韓国の歴史と問題点80』 ブックマン社 竹内睦泰
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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