「それならば憲法を廃止」の提案
投稿者: utsukusiikuninihonn 投稿日時: 2004/10/12 00:22 投稿番号: [3306 / 85019]
懐かしの町
懐かしの人
今
吾れすべてを捨てて
国家の安危に
赴かんとす
悠久の大義に生きんとし 今吾れここに突撃を開始す
魂ハク国に帰り 身は桜花のごとく散らんも 悠久に護国の鬼と化さん
いざさらば 吾はみくにの山桜 母のみもとにかへり咲かなむ
その「懐かしの町、懐かしの人」の中にある我々一人一人が、彼らを守らないということがありえるでしょうか?
米国にミニットマンという言葉があります。国の火急の際はすぐにかけつける、という、米国が英国と独立をめぐる争いをしていた頃、農夫や狩りや商業にいそしむ民衆が即座に銃を手にもって戦場にかけつけ、そこで急場の部隊を作り戦うという伝統が産んだ言葉です。その後ミサイルの名前にもなりましたが、いづれにしても普通の人も国の危機、共同体の危機の際には軍服を付けずとも駆けつけ、そのまま戦いに赴くことを指します。
日本も同じで、日清、日露、太平洋と、その少なからぬ方々は、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」て戦われました。
これは熱烈に志願出兵して戦った朝鮮青年、或いは文字通り激闘敢闘を貫いた台湾の高砂義勇兵をはじめとする台湾兵なども皆変わらない気持ちだったはずです。
国の違いを超えて、心を一つにして戦いの場に集まり、「懐かしの町 懐かしの人 今 吾れすべてを捨てて」散っていったのだろうと思います。
「靖国で会おう」、これは紛れもなく、彼らの合い言葉でありました。墓所が宗教も異なり、場所も、国も異なっても、246万余の英霊には一柱残らず霊璽簿(れいじぼ)にある御名票があります。日本古来の伝統に基づき、御招魂申し上げる限りはすべて御名を確認してお祭りしています。靖国は分霊、分骨された場所でもありません。戦いで「すべてを捧げた」方々の魂が招かれ集う場所であります。
御遺骨の名前が不明、御遺族が空襲、原爆被害などにより不明の方の御遺骨という場合は、これらを墓所でない靖国神社にお納めするわけにはいかないので、隣接する形で千鳥が淵墓苑が設けられております。隣接しているのは魂が御名票がなくとも、戦友の魂と相集うのを容易にするためであります。立派な国であると思います。
「靖国で会おう」、これは彼らが、名誉や勲章や軍神としてあがめられるようなことを一切求めず、ただ一つ、国の火急に一命を捧げられた方々の招魂社である靖国神社において、名をとどめてもらえれば「もう言うことはない」、ただ、「戦友と再び相集えればそれで良い」という、まさに桜花のような、純真で慎ましい気持ちを表していると思います。
「懐かしの町 懐かしの人」の中にある我々は、せめて彼らの「そのただ一つの思い」は汲まなければ、守らなければならない、と思います。
私事で申し訳ないのですが、私は何回か、自民党の関係者から靖国神社の事について聞かれたことがあります。その中でよく出るのは、「憲法に抵触する可能性があるが」という話です。
私は、それについて度々、そうは思わないが、どうしてもそうだというのなら、では「憲法を廃止すれば良い」と答えてきました。私が「憲法をとるか、一命を捧げられた方々の最後の思い、最後の慎ましい希望を守るか、どちらかを選べと問われれば、一命を捧げられた方々を守る方を選びます」と。
それは暴論になります、と言われましたが、私はそうは思いません。
憲法がない国もあります。例えば英国には憲法はありません。それで彼らが何か困っているという話も聞いたことがありません。基本精神論は、広義解釈がしやすく愚論を生みやすい欠点もあるので、ない方が良いという議論は世界で昔からあります。
人権であれ、軍のことであれ、一個一個の個別法の中で、いくらでも法律は充実できます。靖国神社も、逆に将来、いっそ新たな個別法で守った方が司法、行政もやりやすいでしょう。
日本でも現実離れした人々による愚かな議論と、現実離れした地方裁判官らが無益で浅はかな話を延々と続けるくらいならば、その根拠が憲法だというならば、いっそなくしてしまった方が時間も節約できると思います。
憲法はあるが、戦死された方々を、僅か三カ国が愚論を展開しているからといって踏みにじり、「懐かしの町 懐かしの人」を汚す国となるか、
英国のように憲法はないが、靖国神社も大切にされ、天皇陛下が御親拝され、政治家も国民も等しく戦死し、一命を捧げられた方々を大事にする「懐かしの町 懐かしの人」を守る国となるか、
選択はいたって容易ではないでしょうか?
悠久の大義に生きんとし 今吾れここに突撃を開始す
魂ハク国に帰り 身は桜花のごとく散らんも 悠久に護国の鬼と化さん
いざさらば 吾はみくにの山桜 母のみもとにかへり咲かなむ
その「懐かしの町、懐かしの人」の中にある我々一人一人が、彼らを守らないということがありえるでしょうか?
米国にミニットマンという言葉があります。国の火急の際はすぐにかけつける、という、米国が英国と独立をめぐる争いをしていた頃、農夫や狩りや商業にいそしむ民衆が即座に銃を手にもって戦場にかけつけ、そこで急場の部隊を作り戦うという伝統が産んだ言葉です。その後ミサイルの名前にもなりましたが、いづれにしても普通の人も国の危機、共同体の危機の際には軍服を付けずとも駆けつけ、そのまま戦いに赴くことを指します。
日本も同じで、日清、日露、太平洋と、その少なからぬ方々は、「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」て戦われました。
これは熱烈に志願出兵して戦った朝鮮青年、或いは文字通り激闘敢闘を貫いた台湾の高砂義勇兵をはじめとする台湾兵なども皆変わらない気持ちだったはずです。
国の違いを超えて、心を一つにして戦いの場に集まり、「懐かしの町 懐かしの人 今 吾れすべてを捨てて」散っていったのだろうと思います。
「靖国で会おう」、これは紛れもなく、彼らの合い言葉でありました。墓所が宗教も異なり、場所も、国も異なっても、246万余の英霊には一柱残らず霊璽簿(れいじぼ)にある御名票があります。日本古来の伝統に基づき、御招魂申し上げる限りはすべて御名を確認してお祭りしています。靖国は分霊、分骨された場所でもありません。戦いで「すべてを捧げた」方々の魂が招かれ集う場所であります。
御遺骨の名前が不明、御遺族が空襲、原爆被害などにより不明の方の御遺骨という場合は、これらを墓所でない靖国神社にお納めするわけにはいかないので、隣接する形で千鳥が淵墓苑が設けられております。隣接しているのは魂が御名票がなくとも、戦友の魂と相集うのを容易にするためであります。立派な国であると思います。
「靖国で会おう」、これは彼らが、名誉や勲章や軍神としてあがめられるようなことを一切求めず、ただ一つ、国の火急に一命を捧げられた方々の招魂社である靖国神社において、名をとどめてもらえれば「もう言うことはない」、ただ、「戦友と再び相集えればそれで良い」という、まさに桜花のような、純真で慎ましい気持ちを表していると思います。
「懐かしの町 懐かしの人」の中にある我々は、せめて彼らの「そのただ一つの思い」は汲まなければ、守らなければならない、と思います。
私事で申し訳ないのですが、私は何回か、自民党の関係者から靖国神社の事について聞かれたことがあります。その中でよく出るのは、「憲法に抵触する可能性があるが」という話です。
私は、それについて度々、そうは思わないが、どうしてもそうだというのなら、では「憲法を廃止すれば良い」と答えてきました。私が「憲法をとるか、一命を捧げられた方々の最後の思い、最後の慎ましい希望を守るか、どちらかを選べと問われれば、一命を捧げられた方々を守る方を選びます」と。
それは暴論になります、と言われましたが、私はそうは思いません。
憲法がない国もあります。例えば英国には憲法はありません。それで彼らが何か困っているという話も聞いたことがありません。基本精神論は、広義解釈がしやすく愚論を生みやすい欠点もあるので、ない方が良いという議論は世界で昔からあります。
人権であれ、軍のことであれ、一個一個の個別法の中で、いくらでも法律は充実できます。靖国神社も、逆に将来、いっそ新たな個別法で守った方が司法、行政もやりやすいでしょう。
日本でも現実離れした人々による愚かな議論と、現実離れした地方裁判官らが無益で浅はかな話を延々と続けるくらいならば、その根拠が憲法だというならば、いっそなくしてしまった方が時間も節約できると思います。
憲法はあるが、戦死された方々を、僅か三カ国が愚論を展開しているからといって踏みにじり、「懐かしの町 懐かしの人」を汚す国となるか、
英国のように憲法はないが、靖国神社も大切にされ、天皇陛下が御親拝され、政治家も国民も等しく戦死し、一命を捧げられた方々を大事にする「懐かしの町 懐かしの人」を守る国となるか、
選択はいたって容易ではないでしょうか?
これは メッセージ 3304 (oyajiisama さん)への返信です.
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