韓国人が日本の少女暴行」米の学校教材⑯
投稿者: hyugeru29 投稿日時: 2007/01/20 19:00 投稿番号: [32771 / 85019]
<5>孤児収容所愛情の記憶
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm
◆成長した姿と再会、元園長感慨深く
終戦から間もなく丸1年となる1946年8月9日。赤い発疹(はっしん)だらけの男の子や、ソ連(当時)の兵隊の欲望から逃れるために髪を短く切った女の子ら約250人が、引き揚げ船から博多港に下り立った。ほとんどは満州(現中国東北部)で両親と死に別れた孤児たち。特に健康状態が悪い44人は、博多引揚援護局が博多港近くの「聖福寺」(福岡市博多区)に設置した孤児収容所「聖福寮」に運ばれた。
出迎えたのは、後に園長も務める保母、石賀信子さん(89)(同市中央区)。女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」青年班のリーダーだった石賀さんは46年春、引き揚げ者の支援活動を行っていた「友の会」中央本部から「福岡でも支援を始めるように」という電報を受け取った。博多港近くの別の寺を見に行くと、本堂の畳の上に寝転がっていたのは、やせこけた孤児たち。「何とかしなければ」という思いが募り、福岡女学院教諭の職をなげうつことを決めた。
■
44人のうち、当時14歳で最も年上だったのは、八巻博雄さん(74)(宮城県大崎市)。八巻さん一家は満州・蓮江口で生活していたが、ソ連侵攻後に父親は召集され、避難中に祖父母と妹、母が相次いで死亡。残されたきょうだい4人は満州の首都・新京にあった孤児院に入った。八巻さんは汽車のかまからこぼれ落ちる石炭を拾い集め、市場で中国人に売っては生活費に充てた。
生き抜いた4人は孤児院の保母に連れられ、博多港にたどり着いた。聖福寮に入った時の八巻さんの体重は、現在の14歳男子の平均の半分しかない28キロ。それが1週間後に33キロにまで増えたのは、八巻さんが「今でもごちそうとして通るような食事だった」と振り返るように、白い米のご飯や牛乳、ビスケット、ブドウなど、充実した食事のおかげだった。
博多引揚援護局から特別に支給されたものが多かったが、石賀さんは「石油缶に入っていた旧日本軍のビスケットを、虫を払い落としておやつに出したこともある」と苦笑いしながら思い返す。
さらに、聖福寺に開設されていた診療所「聖福病院」から、毎日医師が診察に来てくれた。事務を担当していた波多江興輔さん(82)(東京都豊島区)によると、病院の経営は苦しかったが、聖福寮寮長を兼ねていた小児科医・山本良健さん(故人)が無料で診察を続けたという。
「『どうしてこんなにきちんとしてくれるのだろう』と思うほど保母さんはやさしかった」と、八巻さんは振り返る。毎日の“仕事”といえば、保母に連れられて年長の子ども数人と博多引揚援護局に行き、牛乳を入れてもらったやかんを持ち帰るくらい。やかんを軽くするために、帰り道ではいつも少し飲ませてもらえた。
「結婚後の生活よりも思い出深いし、今でも時間のある時に思い出す」。八巻さんにとって、聖福寮での生活は、働きづめの人生の中で安息のひとときと記憶されている。
■
46年11月、4人は一家の出身地・宮城県の児童養護施設に移った。その後、妹は養子に行き、2人の弟は知人や親類に引き取られてきょうだいは散り散りに。八巻さんも親類宅に住み込んで農作業を手伝った後、シベリアから引き揚げてきた父と一緒に宮城県鳴子町(当時)の高原に入植。54年に結婚後は3人の子供に恵まれ、農地9000坪を所有するほどになった。
「よくない施設だったら聖福寮に返してください」。きょうだい4人を引き取りに来た宮城県の職員に頼んだほど、八巻さんらの行く末を気にかけていた石賀さんは78年10月、八巻さんの農場を訪ねた。家庭を築き上げ、緩やかな丘陵に広がる農場を持つ八巻さんと再会した時、石賀さんは心の中でつぶやいた。「ああ、私の戦後はこれで終わった」
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/document/013/do_013_060817.htm
◆成長した姿と再会、元園長感慨深く
終戦から間もなく丸1年となる1946年8月9日。赤い発疹(はっしん)だらけの男の子や、ソ連(当時)の兵隊の欲望から逃れるために髪を短く切った女の子ら約250人が、引き揚げ船から博多港に下り立った。ほとんどは満州(現中国東北部)で両親と死に別れた孤児たち。特に健康状態が悪い44人は、博多引揚援護局が博多港近くの「聖福寺」(福岡市博多区)に設置した孤児収容所「聖福寮」に運ばれた。
出迎えたのは、後に園長も務める保母、石賀信子さん(89)(同市中央区)。女性誌「婦人之友」の愛読者グループ「友の会」青年班のリーダーだった石賀さんは46年春、引き揚げ者の支援活動を行っていた「友の会」中央本部から「福岡でも支援を始めるように」という電報を受け取った。博多港近くの別の寺を見に行くと、本堂の畳の上に寝転がっていたのは、やせこけた孤児たち。「何とかしなければ」という思いが募り、福岡女学院教諭の職をなげうつことを決めた。
■
44人のうち、当時14歳で最も年上だったのは、八巻博雄さん(74)(宮城県大崎市)。八巻さん一家は満州・蓮江口で生活していたが、ソ連侵攻後に父親は召集され、避難中に祖父母と妹、母が相次いで死亡。残されたきょうだい4人は満州の首都・新京にあった孤児院に入った。八巻さんは汽車のかまからこぼれ落ちる石炭を拾い集め、市場で中国人に売っては生活費に充てた。
生き抜いた4人は孤児院の保母に連れられ、博多港にたどり着いた。聖福寮に入った時の八巻さんの体重は、現在の14歳男子の平均の半分しかない28キロ。それが1週間後に33キロにまで増えたのは、八巻さんが「今でもごちそうとして通るような食事だった」と振り返るように、白い米のご飯や牛乳、ビスケット、ブドウなど、充実した食事のおかげだった。
博多引揚援護局から特別に支給されたものが多かったが、石賀さんは「石油缶に入っていた旧日本軍のビスケットを、虫を払い落としておやつに出したこともある」と苦笑いしながら思い返す。
さらに、聖福寺に開設されていた診療所「聖福病院」から、毎日医師が診察に来てくれた。事務を担当していた波多江興輔さん(82)(東京都豊島区)によると、病院の経営は苦しかったが、聖福寮寮長を兼ねていた小児科医・山本良健さん(故人)が無料で診察を続けたという。
「『どうしてこんなにきちんとしてくれるのだろう』と思うほど保母さんはやさしかった」と、八巻さんは振り返る。毎日の“仕事”といえば、保母に連れられて年長の子ども数人と博多引揚援護局に行き、牛乳を入れてもらったやかんを持ち帰るくらい。やかんを軽くするために、帰り道ではいつも少し飲ませてもらえた。
「結婚後の生活よりも思い出深いし、今でも時間のある時に思い出す」。八巻さんにとって、聖福寮での生活は、働きづめの人生の中で安息のひとときと記憶されている。
■
46年11月、4人は一家の出身地・宮城県の児童養護施設に移った。その後、妹は養子に行き、2人の弟は知人や親類に引き取られてきょうだいは散り散りに。八巻さんも親類宅に住み込んで農作業を手伝った後、シベリアから引き揚げてきた父と一緒に宮城県鳴子町(当時)の高原に入植。54年に結婚後は3人の子供に恵まれ、農地9000坪を所有するほどになった。
「よくない施設だったら聖福寮に返してください」。きょうだい4人を引き取りに来た宮城県の職員に頼んだほど、八巻さんらの行く末を気にかけていた石賀さんは78年10月、八巻さんの農場を訪ねた。家庭を築き上げ、緩やかな丘陵に広がる農場を持つ八巻さんと再会した時、石賀さんは心の中でつぶやいた。「ああ、私の戦後はこれで終わった」
これは メッセージ 32768 (hyugeru29 さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019565/4z9q_1/32771.html