独島は韓国固有の領土ですと
投稿者: shamisengai 投稿日時: 2006/05/09 11:26 投稿番号: [24373 / 85019]
しかし論破済みの根拠ならべて、子供を騙すなっちゅうの。
というか馬韓国の間抜けな主張をコピペではないか。
(参考文献見て納得orz)
半島系も多く入っているだろうが、反日日本人という屑も
こういうところに入り浸っているのが許せん。
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/takesima1.htm
今年3月16日、島根県議会は、全三条からなる「竹島の日」条例を制定した。
第二条で、「1905年に県が竹島帰属を告示した2月22日を『竹島の日』
とする」とし、そのための「領土確立運動やさまざまな啓蒙活動を
県として行っていく」(一、二条)と定めた。
日本政府も、「つくる会」教科書の検定において、原文「韓国との間で
領有権が争われている」を「『竹島』は日本固有の領土」と
書き直させている。
これに対し、韓国・朝鮮は「これは単純な領有権問題ではなく、
植民地解放の歴史を否認し、過去の侵略の歴史の正当化である」
(3、17韓国・国家安全保障会議声明)として、激しい抗議を展開している。
果たして『竹島』は日本の固有の領土なのか。断じてそうではない。
江戸幕府も明治政府も初期までは『竹島』を領土と認識していなかった。
それが一転して1905年、「乙巳保護条約」(ウルサ保護条約・・
内政、外交権を奪い、朝鮮軍を解散させ、統監府を置き朝鮮植民地支配の
第一歩となった)を強制する過程で、奪ったものでる。
すなわち日本の帝国主義侵略によって奪った島であり、
固有の領土では決してない。
以下、問題点について見てみよう。古い語句はできる限り現代文で表す。
■はじめに――基本的知識として
?島の呼称・・・日本では江戸時代から、現・鬱陵島を「竹島」、
現・独島(日本名・竹島)を「松島」と呼んでいた。
「島」(独島=竹島)は、草木も生えない岩礁島であるが、
「竹島」(鬱陵島)と対(つい)をなしているという意味からその名がついた。
両島は、天気の良い日はお互いをよく望むことができる位置にある。
?鬱陵島の属島・・・江戸・明治期の公文書では、松島(独島=竹島)は、
竹島(鬱陵島)にひとくくりにされ「竹島(鬱陵島)ほか一島」と表現されている。
すなわち松島(独島=竹島)は、鬱陵島の属島と見られていた。
?竹島(鬱陵島)へは・・・アワビ採取、銘木・薬草採取、アシカ猟のため、
米子商人がたびたび渡海していた。松島(独島=竹島)へは、
竹島(鬱陵島)への往復時、船休めのために立ち寄ることはあっても、
経済的利益が何もないことから松島だけに行くことはなかった。
一、歴史的に朝鮮領であった竹島(独島)
?江戸幕府の認識
江戸時代初期、竹島(鬱陵島)をめぐって、初めて日本と朝鮮の間で
領土紛争が生じた(「竹島一件」)。
事件の発端は、1692年、同島へ渡った米子商人(大谷、村川家)が、
すでに来島していた朝鮮人漁民と遭遇したことからであった。
翌年両家が再び竹島(鬱陵島)へ行くと、やはり朝鮮人漁民が来島していた。
そこで、二名の朝鮮人を米子へ連行して帰った。
このことを鳥取藩を経由して、報告を受けた江戸幕府は、
朝鮮人の竹島(鬱陵島)への来島を禁止するよう朝鮮政府に申し入れ、
7年間に及ぶ外交交渉が始まった。
1695年、朝鮮から「日本側が言う竹島とは鬱陵島のことで、
この諸島は朝鮮領であり、ここで漁をしていた漁民を拘束したことは
誠信の道に欠ける。今後渡航を禁じ、
同じ事件が起こらぬよう命じてほしい」旨の返書を受け取った幕府は、
本格的に竹島(鬱陵島)の帰属についての検討をおこなった。
結果、鳥取藩自身が「竹島、松島其外両国
(因州・伯州)之付属の島 無御座候」(「鳥取藩回答書」)と明言し、
竹島、松島は自藩領でないと認め、幕府も、そこに日本人が
住んでいないこと、地理的に因州(因幡国)より
朝鮮に近いことなどから、同島は「朝鮮領であり無用の小島」と断じ、
96年渡航禁止を決定、対馬藩を通して朝鮮側に伝えられた。
こうして「竹島一件」は落着するのであるが、その際、
松島(独島=竹島)への言及はない。しかし、「鳥取藩回答書」や
松島が竹島帰属の岩礁島であることからして、こ
のとき幕府は、松島も放棄したと見るのが自然である。
実際、徳川幕府の官撰地図には、松島・竹島とも記入されていない。
(続く)
というか馬韓国の間抜けな主張をコピペではないか。
(参考文献見て納得orz)
半島系も多く入っているだろうが、反日日本人という屑も
こういうところに入り浸っているのが許せん。
http://www1.ocn.ne.jp/~sinryaku/takesima1.htm
今年3月16日、島根県議会は、全三条からなる「竹島の日」条例を制定した。
第二条で、「1905年に県が竹島帰属を告示した2月22日を『竹島の日』
とする」とし、そのための「領土確立運動やさまざまな啓蒙活動を
県として行っていく」(一、二条)と定めた。
日本政府も、「つくる会」教科書の検定において、原文「韓国との間で
領有権が争われている」を「『竹島』は日本固有の領土」と
書き直させている。
これに対し、韓国・朝鮮は「これは単純な領有権問題ではなく、
植民地解放の歴史を否認し、過去の侵略の歴史の正当化である」
(3、17韓国・国家安全保障会議声明)として、激しい抗議を展開している。
果たして『竹島』は日本の固有の領土なのか。断じてそうではない。
江戸幕府も明治政府も初期までは『竹島』を領土と認識していなかった。
それが一転して1905年、「乙巳保護条約」(ウルサ保護条約・・
内政、外交権を奪い、朝鮮軍を解散させ、統監府を置き朝鮮植民地支配の
第一歩となった)を強制する過程で、奪ったものでる。
すなわち日本の帝国主義侵略によって奪った島であり、
固有の領土では決してない。
以下、問題点について見てみよう。古い語句はできる限り現代文で表す。
■はじめに――基本的知識として
?島の呼称・・・日本では江戸時代から、現・鬱陵島を「竹島」、
現・独島(日本名・竹島)を「松島」と呼んでいた。
「島」(独島=竹島)は、草木も生えない岩礁島であるが、
「竹島」(鬱陵島)と対(つい)をなしているという意味からその名がついた。
両島は、天気の良い日はお互いをよく望むことができる位置にある。
?鬱陵島の属島・・・江戸・明治期の公文書では、松島(独島=竹島)は、
竹島(鬱陵島)にひとくくりにされ「竹島(鬱陵島)ほか一島」と表現されている。
すなわち松島(独島=竹島)は、鬱陵島の属島と見られていた。
?竹島(鬱陵島)へは・・・アワビ採取、銘木・薬草採取、アシカ猟のため、
米子商人がたびたび渡海していた。松島(独島=竹島)へは、
竹島(鬱陵島)への往復時、船休めのために立ち寄ることはあっても、
経済的利益が何もないことから松島だけに行くことはなかった。
一、歴史的に朝鮮領であった竹島(独島)
?江戸幕府の認識
江戸時代初期、竹島(鬱陵島)をめぐって、初めて日本と朝鮮の間で
領土紛争が生じた(「竹島一件」)。
事件の発端は、1692年、同島へ渡った米子商人(大谷、村川家)が、
すでに来島していた朝鮮人漁民と遭遇したことからであった。
翌年両家が再び竹島(鬱陵島)へ行くと、やはり朝鮮人漁民が来島していた。
そこで、二名の朝鮮人を米子へ連行して帰った。
このことを鳥取藩を経由して、報告を受けた江戸幕府は、
朝鮮人の竹島(鬱陵島)への来島を禁止するよう朝鮮政府に申し入れ、
7年間に及ぶ外交交渉が始まった。
1695年、朝鮮から「日本側が言う竹島とは鬱陵島のことで、
この諸島は朝鮮領であり、ここで漁をしていた漁民を拘束したことは
誠信の道に欠ける。今後渡航を禁じ、
同じ事件が起こらぬよう命じてほしい」旨の返書を受け取った幕府は、
本格的に竹島(鬱陵島)の帰属についての検討をおこなった。
結果、鳥取藩自身が「竹島、松島其外両国
(因州・伯州)之付属の島 無御座候」(「鳥取藩回答書」)と明言し、
竹島、松島は自藩領でないと認め、幕府も、そこに日本人が
住んでいないこと、地理的に因州(因幡国)より
朝鮮に近いことなどから、同島は「朝鮮領であり無用の小島」と断じ、
96年渡航禁止を決定、対馬藩を通して朝鮮側に伝えられた。
こうして「竹島一件」は落着するのであるが、その際、
松島(独島=竹島)への言及はない。しかし、「鳥取藩回答書」や
松島が竹島帰属の岩礁島であることからして、こ
のとき幕府は、松島も放棄したと見るのが自然である。
実際、徳川幕府の官撰地図には、松島・竹島とも記入されていない。
(続く)
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/552019565/4z9q_1/24373.html