無慈悲な最後を遂げた金玉均とその一族
投稿者: bell45a 投稿日時: 2005/05/24 12:32 投稿番号: [11732 / 85019]
一族まで皆殺しにされて、その墓も当時まったく朝鮮にあるはずもなく、墓所を作って永く弔ってきたのは日本人だったのだが・・・・・
【金玉均と頭山滿との親しみには、幼友達のような友情があつたらしい。
金玉均は、通訳なしで何の気がねも遠慮もなく交わつた。
敬愛というよりも親愛というべき間だつたように思われる。
金玉均は、朝鮮両班出身で、学識を大院君にみとめられ、政府の要職についた。
そのころの韓国は、李王朝の暗黒專制の支配下にあつて、王朝政府は、大清帝国に隸屬してをり全く亡国の惨状を呈していた。
金玉均は、韓国の国情に慷慨し、隣国日本が維新後、急速に近代下して行く状況を見て、朝鮮もまた日本に学び、国政を改革しなければならないとの志を立てた。明治十三年(一八八○)いらい金は、しばしば日本に渡つて視察し、とくに慶應義塾の福澤諭吉をたづねて、指導を求めた。福澤は懇切な指導を惜しまなかつたばかりでなく後藤象二郎等の有力な政治家へも紹介した。
かくして金玉均は、日本との親善提携を深めながら、韓国政治の改革を謀り、清からの独立を求めようとして準備を進めた。
明治十七年十二月、クーデターを企てたが、京城駐留の清軍ひきいる袁世凱のために撃破されて、同志とともに日本へ亡命した。
十八年韓国政府は、亡命者の引渡しを要求したが、日本政府は、その要求を拒否した。
韓国政府は、ひそかに金玉均に刺客を放つておびやかした。
金玉均は、朝鮮の青年を集めて運動をはじめた。日本人では、頭山滿、岡本柳之助、犬養毅などが、同情者で援助をつづけたが、運動は伸びなかつた。
頭山は、金玉均や日本人が事を急ぐのに同意しないで、大いに自重の説を主張した。
それは釜山に「善隣館」と称する語学校を建てて、ここに青年を集めて準備を重ね、独立運動を支援しようとした。
金玉均もその会合に參加し、善隣館の設立趣旨書は中江兆民が執筆した。
資金は前田下學、赤澤常容等が担当することにした。
金玉均は神戸出帆の郵船西京丸で、上海に渡航し、翌日、ホテルで洪鐘宇のために暗殺された。
刺客洪鐘宇は、上海租界の米国警察に逮捕された。
しかしそれは清国政府の申入れで清国側に引き渡された。清国政府の李鴻章は、洪鐘宇を優遇し、金玉均の遺骸とともに、清国軍艦で韓国へおくりとどけ、韓国王に暗殺の成功を祝する電報を発した。
韓国では到着すると金玉均の遺骸をひきずり出して、寸断し、梟首(さらしもの)にして、「謀反大逆不道罪人玉均」云々との札を立てた。
その凄慘な状況は見るものをして畏怖戦慄させた。
それだけでなくその一族は国賊だということでことごとく処刑された。
これは清、韓国政府が、金玉均等の独立・進歩の運動をいかに強く憎んだかをしめすものであるが、その暗黒政治と無法とを国際的に公開したやうなものだつた。
金という姓は沢山あるが金玉均は「安東金」という家柄であった。
金氏に限らす朝鮮では子どもの名前は陰陽五行説に従ってつけていた。
姓が金で名前に「均」のついている者はすべて殺された。
殺された後、四肢をばらばらにし、それを見せしめとして全国を巡回させたという。】
どことなく、今の韓国に相通ずるものを感じる。
【金玉均と頭山滿との親しみには、幼友達のような友情があつたらしい。
金玉均は、通訳なしで何の気がねも遠慮もなく交わつた。
敬愛というよりも親愛というべき間だつたように思われる。
金玉均は、朝鮮両班出身で、学識を大院君にみとめられ、政府の要職についた。
そのころの韓国は、李王朝の暗黒專制の支配下にあつて、王朝政府は、大清帝国に隸屬してをり全く亡国の惨状を呈していた。
金玉均は、韓国の国情に慷慨し、隣国日本が維新後、急速に近代下して行く状況を見て、朝鮮もまた日本に学び、国政を改革しなければならないとの志を立てた。明治十三年(一八八○)いらい金は、しばしば日本に渡つて視察し、とくに慶應義塾の福澤諭吉をたづねて、指導を求めた。福澤は懇切な指導を惜しまなかつたばかりでなく後藤象二郎等の有力な政治家へも紹介した。
かくして金玉均は、日本との親善提携を深めながら、韓国政治の改革を謀り、清からの独立を求めようとして準備を進めた。
明治十七年十二月、クーデターを企てたが、京城駐留の清軍ひきいる袁世凱のために撃破されて、同志とともに日本へ亡命した。
十八年韓国政府は、亡命者の引渡しを要求したが、日本政府は、その要求を拒否した。
韓国政府は、ひそかに金玉均に刺客を放つておびやかした。
金玉均は、朝鮮の青年を集めて運動をはじめた。日本人では、頭山滿、岡本柳之助、犬養毅などが、同情者で援助をつづけたが、運動は伸びなかつた。
頭山は、金玉均や日本人が事を急ぐのに同意しないで、大いに自重の説を主張した。
それは釜山に「善隣館」と称する語学校を建てて、ここに青年を集めて準備を重ね、独立運動を支援しようとした。
金玉均もその会合に參加し、善隣館の設立趣旨書は中江兆民が執筆した。
資金は前田下學、赤澤常容等が担当することにした。
金玉均は神戸出帆の郵船西京丸で、上海に渡航し、翌日、ホテルで洪鐘宇のために暗殺された。
刺客洪鐘宇は、上海租界の米国警察に逮捕された。
しかしそれは清国政府の申入れで清国側に引き渡された。清国政府の李鴻章は、洪鐘宇を優遇し、金玉均の遺骸とともに、清国軍艦で韓国へおくりとどけ、韓国王に暗殺の成功を祝する電報を発した。
韓国では到着すると金玉均の遺骸をひきずり出して、寸断し、梟首(さらしもの)にして、「謀反大逆不道罪人玉均」云々との札を立てた。
その凄慘な状況は見るものをして畏怖戦慄させた。
それだけでなくその一族は国賊だということでことごとく処刑された。
これは清、韓国政府が、金玉均等の独立・進歩の運動をいかに強く憎んだかをしめすものであるが、その暗黒政治と無法とを国際的に公開したやうなものだつた。
金という姓は沢山あるが金玉均は「安東金」という家柄であった。
金氏に限らす朝鮮では子どもの名前は陰陽五行説に従ってつけていた。
姓が金で名前に「均」のついている者はすべて殺された。
殺された後、四肢をばらばらにし、それを見せしめとして全国を巡回させたという。】
どことなく、今の韓国に相通ずるものを感じる。
これは メッセージ 1 (topics_editor さん)への返信です.
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