李朝時代は鬱陵島ですら無人島だったのに…
投稿者: ftg_algernon 投稿日時: 2012/09/12 21:41 投稿番号: [1148 / 1167]
●鬱陵島(ウルルンド)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%AC%B1%E9%99%B5%E5%B3%B6&oldid=43722203
>李氏朝鮮は長期間無人政策をとっていたため人は住んでいなかったが,1882年国王高宗は鬱陵島検察使,李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止,その後再び人が住み始めた。
●竹嶼(チュクソ,竹島)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AB%B9%E5%B6%BC&oldid=43759677
↑↑前から言われていることだが,鬱陵島(うつりょうとう,ウルルンド)の旧日本名は磯竹島(竹島)。
島の東側に竹嶼(チュクソ,竹島)という小島が付随しているという認識は,現代の韓国でも一緒のはずだ。
鬱陵島は,倭寇の居住を恐れた李氏朝鮮の第三代の太宗の政策(1403年〜)によって,長い間人が住んではいけない島とされ,空島となっていた。
日本の漁師や商人達は,無人島になっていた鬱陵島を偶々発見した時に,自分達が初めて見つけた空島だと勝手に思い込み,鬱陵島を竹島,竹嶼を松島と名付け,周辺で漁をするなどして利用していたらしい。
李氏朝鮮と江戸幕府が,鎖国政策をし始めた当初も,無人島にしておきたい李氏朝鮮と,鬱陵島(竹島)周辺で漁をしたい漁師や,自国領土にしたい藩や商人との間で度々揉め事が起きており,江戸幕府が仲裁に入っている。
1696年(元禄9年)1月28日付で,幕府が老中の連署でもって「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」と,鳥取藩主池田綱清に竹島渡航禁止を通告するなどしている。
●なぜ韓国の古地図は鬱陵島を二つの島として描いているの?
h%ttp://b%log.liv%edoor.jp/tonchamon/archives/52002459.html(%削除)
●領有権争いの島は鬱陵島
http://homepage3.nifty.com/gochagocha/Giman/Takesima/TakesimaSubD.htm
「次に一島あり 松島と呼ぶ。周回は30町ばかり。竹島と同じ船路に在る。隠岐を距る80里許である。樹竹は稀なり。また,魚獣(アシカ?)を産する。」
↑↑明治期の公文書には,鬱陵島に行く途中にあるアシカの棲む岩礁の方(おそらく現在の竹島:独島の方)を松島と勘違いして書いた記述もあり,混乱を誘うが…。
本来は「竹島=鬱陵島」「松島=竹嶼」の認識のはず。
現在の竹島(独島)は,おそらく,1849年にフランスの捕鯨船 Liancourt号が発見し,リアンクール岩礁と名付ける事で,初めて地図に載る様な,国際的におおやけな島となった。
日本では,開国後,自国の領土確定の為に日本列島周辺の海(水深や岩礁)や島々を軍艦などで測量し地図を作成すると共に,李氏朝鮮側と(平和的に)両国の境界上にある島々の領有権の折衝が行われた。
1877年(明治10年)3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
…が,これが「鬱陵島と付随する竹嶼」のことをさすのか,それとも「鬱陵島一帯とリアンクール岩礁(竹島,独島)」のことを指しているのかが現在の争点なのだろう。
■鬱陵島は,倭寇の居住を恐れた李朝の太宗の政策(1403年〜)によって長い間,無人島だった。
李朝は江戸幕府と同じ鎖国政策をとっていた。が,開国は日本よりも遅く(1875年に江華島事件,翌1876年に日朝修好条規を締結し,開国。それまでは対馬藩を通じてのみの外交交易関係だった),
鬱陵島を調査した上で,役所をおき,移民を募り人が住み始めたのは 1882年以降のこと。
日本側が「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とした 1877年(明治10年)よりも何年も後の事である。
金玉均など日本に学びに来ていた改革派官僚に促され,日本と同じ様に,周辺の島々,海域を含めた自国領土の策定…正確な地図作成,領土確定をし出したのだろう。
動力付きの船舶を購入したりする事で,離島を利用出来る様になった。役所を置いた上で,名字を持ち,戸籍を作り,住民登録し…,日本政府にあれこれ言われても動かなかった保守的な朝鮮政府が,近代化に舵をとりはじめる様になった黎明期なのだろう。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%AC%B1%E9%99%B5%E5%B3%B6&oldid=43722203
>李氏朝鮮は長期間無人政策をとっていたため人は住んでいなかったが,1882年国王高宗は鬱陵島検察使,李奎遠にこの島の調査を指示し空島政策を廃止,その後再び人が住み始めた。
●竹嶼(チュクソ,竹島)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%AB%B9%E5%B6%BC&oldid=43759677
↑↑前から言われていることだが,鬱陵島(うつりょうとう,ウルルンド)の旧日本名は磯竹島(竹島)。
島の東側に竹嶼(チュクソ,竹島)という小島が付随しているという認識は,現代の韓国でも一緒のはずだ。
鬱陵島は,倭寇の居住を恐れた李氏朝鮮の第三代の太宗の政策(1403年〜)によって,長い間人が住んではいけない島とされ,空島となっていた。
日本の漁師や商人達は,無人島になっていた鬱陵島を偶々発見した時に,自分達が初めて見つけた空島だと勝手に思い込み,鬱陵島を竹島,竹嶼を松島と名付け,周辺で漁をするなどして利用していたらしい。
李氏朝鮮と江戸幕府が,鎖国政策をし始めた当初も,無人島にしておきたい李氏朝鮮と,鬱陵島(竹島)周辺で漁をしたい漁師や,自国領土にしたい藩や商人との間で度々揉め事が起きており,江戸幕府が仲裁に入っている。
1696年(元禄9年)1月28日付で,幕府が老中の連署でもって「向後 竹島へ渡航之儀 制禁 可申付旨 被仰出之候間」と,鳥取藩主池田綱清に竹島渡航禁止を通告するなどしている。
●なぜ韓国の古地図は鬱陵島を二つの島として描いているの?
h%ttp://b%log.liv%edoor.jp/tonchamon/archives/52002459.html(%削除)
●領有権争いの島は鬱陵島
http://homepage3.nifty.com/gochagocha/Giman/Takesima/TakesimaSubD.htm
「次に一島あり 松島と呼ぶ。周回は30町ばかり。竹島と同じ船路に在る。隠岐を距る80里許である。樹竹は稀なり。また,魚獣(アシカ?)を産する。」
↑↑明治期の公文書には,鬱陵島に行く途中にあるアシカの棲む岩礁の方(おそらく現在の竹島:独島の方)を松島と勘違いして書いた記述もあり,混乱を誘うが…。
本来は「竹島=鬱陵島」「松島=竹嶼」の認識のはず。
現在の竹島(独島)は,おそらく,1849年にフランスの捕鯨船 Liancourt号が発見し,リアンクール岩礁と名付ける事で,初めて地図に載る様な,国際的におおやけな島となった。
日本では,開国後,自国の領土確定の為に日本列島周辺の海(水深や岩礁)や島々を軍艦などで測量し地図を作成すると共に,李氏朝鮮側と(平和的に)両国の境界上にある島々の領有権の折衝が行われた。
1877年(明治10年)3月29日:「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とする太政官の指令が内務省に伝達された。
…が,これが「鬱陵島と付随する竹嶼」のことをさすのか,それとも「鬱陵島一帯とリアンクール岩礁(竹島,独島)」のことを指しているのかが現在の争点なのだろう。
■鬱陵島は,倭寇の居住を恐れた李朝の太宗の政策(1403年〜)によって長い間,無人島だった。
李朝は江戸幕府と同じ鎖国政策をとっていた。が,開国は日本よりも遅く(1875年に江華島事件,翌1876年に日朝修好条規を締結し,開国。それまでは対馬藩を通じてのみの外交交易関係だった),
鬱陵島を調査した上で,役所をおき,移民を募り人が住み始めたのは 1882年以降のこと。
日本側が「日本海内竹島外一島ヲ版圖外ト定ム」とした 1877年(明治10年)よりも何年も後の事である。
金玉均など日本に学びに来ていた改革派官僚に促され,日本と同じ様に,周辺の島々,海域を含めた自国領土の策定…正確な地図作成,領土確定をし出したのだろう。
動力付きの船舶を購入したりする事で,離島を利用出来る様になった。役所を置いた上で,名字を持ち,戸籍を作り,住民登録し…,日本政府にあれこれ言われても動かなかった保守的な朝鮮政府が,近代化に舵をとりはじめる様になった黎明期なのだろう。
これは メッセージ 1146 (algernon さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/200000464/e79dhaf8c0mfbbgefdnna4nbfbf0ua4o_1/1148.html