Re: 竹島領有をめぐる歴史的経緯を見ると
投稿者: requinbleu85 投稿日時: 2011/08/09 00:32 投稿番号: [353 / 444]
既に下条正男教授らが論駁し尽くしていることを、また蒸し返すのか。
>【江戸幕府の認識】
鳥取藩自身が「竹島、松島其外両国(因州・伯州)之付属の島 無御座候」(「鳥取藩回答書」)と明言し、竹島、松島は自藩領でないと認めた。幕府も、そこに日本人が住んでいないこと、地理的に因州(因幡国)より朝鮮に近いことなどから、同島は「朝鮮領であり無用の小島」と断じ、96年渡航禁止を決定、対馬藩を通して朝鮮側に伝えられた。
密航者の安龍福の申し立てにより、「江戸幕府」が「対馬藩」を通じて「李朝」と接触し、「李朝」の領土と認め、日本人の渡航を禁止した(1696年1月28日)のは「鬱陵島」のみ。
安龍福は帰国後、「李朝」の取調べで、「鳥取藩主と対面し、「鬱陵島」のみか「竹島」の領有権も認めさせた」と証言したが、これは真っ赤な嘘で、安龍福は鳥取藩主に会ってもいなかった。(鳥取藩主は、「参勤交代」で江戸にいた)
>【1905年以前の明治政府の認識】
明治政府は成立早々の1869年、朝鮮の内情調査のため左田白芽ら三人の外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、左田は報告書『朝鮮国交際始末 内探書』を作成。そこには明確に「松島は竹島の属島であり、朝鮮に附属することにあい成り候」と記された。つまり当時の外務省が松島・竹島が朝鮮領であることを明確にし、江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、竹島を朝鮮領と認識していた。
「外務省」出仕の佐田白芽が、1870年に出した「公文書」には「竹島・松島、朝鮮附属に相成りし候始末」とあるが、この中の「竹島・松島」は「鬱陵島」のこと。
幕末、維新の混乱期に、「鬱陵島」は「シーボルト地図」で「竹島・松島」となっており、勝海舟の「大日本沿岸略図」もその影響で、ほぼ同様の記述になっていた。その原因はイギリスとフランスが相次いで「鬱陵島」を発見し、それぞれが「アルゴノート島」「ダジュレー島」と名付けたことから、実は「鬱陵島」は一島しかないのに、二島あると思われていたことに起因している。
因みに、同じ「シーボルト地図」には、現在の「竹島」は「りゃんこ岩(フランスが名付けた「リアンクール岩礁」から転訛した呼称)」として記載されていた。
1880年に「天城」が「日本海」の「海洋調査」を行い、「アルゴノート島(竹島)」と「ダジュレー島(松島)」が、同じ島で「鬱陵島」のことだと確認できたので、「アルゴノート島(竹島)」を地図から削除し、「松島(鬱陵島)」「りゃんこ岩(リアンクール岩礁)」の表記だけが残された。
>現在の日本政府の主張では、例えば「1905年の島根県への編入」がもっとも主要な根拠として挙げられたりしています。しかし、この事実は逆に、それまで日本領土として認識していなかったということを表していると言えます。
それまで「りゃんこ岩」は、日本人が「アシカ猟」の拠点として占有していたのだが、1904年に中井養三郎が「政府」に「りゃんこ岩」の「貸下げ」を依頼してきたため、「明治政府」はまだ正式な「日本領土」となっていなかった「りゃんこ岩」を調査し、“無住地であること”及び“中井養三郎の会社が小屋を構えていること”を確認して、1905年1月28日に「無主地先占」として、まず「りゃんこ岩」を「島根県隠岐島」に編入し、同時に「りゃんこ岩」から「竹島」名称変更する「閣議決定」を行なったのである。(1905年2月22日、「島根県告示第40号」として公示)
>すでに実質的な外交権を奪うなど韓国侵略政策が進められていたこの時代のこの措置が正当性を持たないことも明らかです。これを領土権を主張するための主要な根拠として持ち出している時点で説得力を失っています。
「大韓帝国」が「外交権」を失ったのは、「第二次日韓協約」(1905年11月27日)であり、「竹島」編入はそれより10ヶ月ほど前で、まだ「外交権」は保持していた。
>1905年以前の明治政府の認識は上に書いたとおりですが、ほかに1877(明治10)年にも明治政府の最高機関である太政官が「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだして、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論を下しています。
それは「内務省」の「通達」、及び「訓令」(1877年3月20日、及び4月9日)のことをいっているのだろうが、既に述べたように1880年の「天城」による「海洋調査」まで、「竹島・松島」と記述している場合は「鬱陵島」のことを指しているのである。
現在の「竹島」が「竹島」と呼ばれるようになったのは、1905年1月28日のことであり、それまでこの島が「りゃんこ岩」と呼ばれていたことを想起されたし。
>【江戸幕府の認識】
鳥取藩自身が「竹島、松島其外両国(因州・伯州)之付属の島 無御座候」(「鳥取藩回答書」)と明言し、竹島、松島は自藩領でないと認めた。幕府も、そこに日本人が住んでいないこと、地理的に因州(因幡国)より朝鮮に近いことなどから、同島は「朝鮮領であり無用の小島」と断じ、96年渡航禁止を決定、対馬藩を通して朝鮮側に伝えられた。
密航者の安龍福の申し立てにより、「江戸幕府」が「対馬藩」を通じて「李朝」と接触し、「李朝」の領土と認め、日本人の渡航を禁止した(1696年1月28日)のは「鬱陵島」のみ。
安龍福は帰国後、「李朝」の取調べで、「鳥取藩主と対面し、「鬱陵島」のみか「竹島」の領有権も認めさせた」と証言したが、これは真っ赤な嘘で、安龍福は鳥取藩主に会ってもいなかった。(鳥取藩主は、「参勤交代」で江戸にいた)
>【1905年以前の明治政府の認識】
明治政府は成立早々の1869年、朝鮮の内情調査のため左田白芽ら三人の外務省高官を朝鮮へ派遣した。翌年、左田は報告書『朝鮮国交際始末 内探書』を作成。そこには明確に「松島は竹島の属島であり、朝鮮に附属することにあい成り候」と記された。つまり当時の外務省が松島・竹島が朝鮮領であることを明確にし、江戸幕府の「竹島一件」のてん末を継承し、竹島を朝鮮領と認識していた。
「外務省」出仕の佐田白芽が、1870年に出した「公文書」には「竹島・松島、朝鮮附属に相成りし候始末」とあるが、この中の「竹島・松島」は「鬱陵島」のこと。
幕末、維新の混乱期に、「鬱陵島」は「シーボルト地図」で「竹島・松島」となっており、勝海舟の「大日本沿岸略図」もその影響で、ほぼ同様の記述になっていた。その原因はイギリスとフランスが相次いで「鬱陵島」を発見し、それぞれが「アルゴノート島」「ダジュレー島」と名付けたことから、実は「鬱陵島」は一島しかないのに、二島あると思われていたことに起因している。
因みに、同じ「シーボルト地図」には、現在の「竹島」は「りゃんこ岩(フランスが名付けた「リアンクール岩礁」から転訛した呼称)」として記載されていた。
1880年に「天城」が「日本海」の「海洋調査」を行い、「アルゴノート島(竹島)」と「ダジュレー島(松島)」が、同じ島で「鬱陵島」のことだと確認できたので、「アルゴノート島(竹島)」を地図から削除し、「松島(鬱陵島)」「りゃんこ岩(リアンクール岩礁)」の表記だけが残された。
>現在の日本政府の主張では、例えば「1905年の島根県への編入」がもっとも主要な根拠として挙げられたりしています。しかし、この事実は逆に、それまで日本領土として認識していなかったということを表していると言えます。
それまで「りゃんこ岩」は、日本人が「アシカ猟」の拠点として占有していたのだが、1904年に中井養三郎が「政府」に「りゃんこ岩」の「貸下げ」を依頼してきたため、「明治政府」はまだ正式な「日本領土」となっていなかった「りゃんこ岩」を調査し、“無住地であること”及び“中井養三郎の会社が小屋を構えていること”を確認して、1905年1月28日に「無主地先占」として、まず「りゃんこ岩」を「島根県隠岐島」に編入し、同時に「りゃんこ岩」から「竹島」名称変更する「閣議決定」を行なったのである。(1905年2月22日、「島根県告示第40号」として公示)
>すでに実質的な外交権を奪うなど韓国侵略政策が進められていたこの時代のこの措置が正当性を持たないことも明らかです。これを領土権を主張するための主要な根拠として持ち出している時点で説得力を失っています。
「大韓帝国」が「外交権」を失ったのは、「第二次日韓協約」(1905年11月27日)であり、「竹島」編入はそれより10ヶ月ほど前で、まだ「外交権」は保持していた。
>1905年以前の明治政府の認識は上に書いたとおりですが、ほかに1877(明治10)年にも明治政府の最高機関である太政官が「日本海内竹島外一島を版図外とする」との指令をだして、やはり松島・竹島は日本領でないとの結論を下しています。
それは「内務省」の「通達」、及び「訓令」(1877年3月20日、及び4月9日)のことをいっているのだろうが、既に述べたように1880年の「天城」による「海洋調査」まで、「竹島・松島」と記述している場合は「鬱陵島」のことを指しているのである。
現在の「竹島」が「竹島」と呼ばれるようになったのは、1905年1月28日のことであり、それまでこの島が「りゃんこ岩」と呼ばれていたことを想起されたし。
これは メッセージ 244 (nukabosi さん)への返信です.
固定リンク:https://yarchive.emmanuelc.dix.asia/200000230/ki1rgrbdqcddeg5adbdra4k4z9q935d_1/353.html