Re: 竹島に竹はありますか?:韓国の立場
投稿者: anti_mainas_shikou 投稿日時: 2010/08/23 23:20 投稿番号: [76 / 2382]
>当時日本で鬱陵島(ウルルンド)を竹島、独島(ドクト)を松島(松島)で呼んだ。
おいおい、独島っていつできた名前だ。
古い文献には出て来んぞ。
かってに、昔の松島に独島をあてはめるなよ。
>17世紀末に朝鮮とやりとりした関係文書ら、特に竹島一件(竹島一件)の記録らを全部調査
日本人が鬱陵島に渡航していた問題だろ、幕府は鬱陵島への渡航を禁止した。
しかし、松島 (現竹島) への渡航は禁止していないぞ。
かってに話をすり替えるなよ。
>この問題はすでに1699年に終わった問題で鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)は朝鮮領土で‘我が国は関係がない(本邦関係無之)’と結論を下した
かってに変えるな 「独島(ドクト)」 という名前は入ってないはずだ。
この問題ではっきりしているのは、鬱陵島は朝鮮領土で我が国は関係がないという事だ。
>1877年太政官(太政官、明治期の最高官庁、現在の内閣)で「伺ノ竹島外一島ノ儀本邦?係無之儀ト可相心得事」といって、「竹島(チュクト)(竹島-鬱陵島(ウルルンド))外1島に対して日本と関係ないということを肝に銘じること」と最終決定を下した公文書がある。
この頃、日本では、まだ鬱陵島を竹島と言っていた。
地図では鬱陵島の横に竹島(チュクド)がある。 一島とは竹島 (チュクド) の事だろう。
今の竹島はリャンコ島だった。よってここの記述は今の竹島とは関係ない。
1882年4月李奎遠が鬱陵島に赴いた。 そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗は、彼に対し、
「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。
また何れの物有りや否や」と下問している。
この高宗の質問に対して李奎遠は 「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は
古(いにしえ)の国都の名なり」とし、
「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里 (今の2Kmに相当)、
その産するところは即ち檀香と簡竹」 と、答えている。
このころ、日本の地図で鬱陵島が竹島だったり松島になったりして混乱していた。
高宗はわけが分からんから、聞いたようだが、答えるほうもよくわかっていなかったようだ。
彼は、鬱陵島のそばの竹島 (チュクド) を松竹島と答えている。
これが、今の竹島の筈がない。距離が近すぎる。
かつ今の竹島に檀香とか簡竹が生えているか。いまから植えるなよ。
明治32年 (1899年) でもまだ混乱し新聞は鬱陵島を竹島あるいは松島と書いていた。
〔明治32年10月1日 東京朝日〕 朝鮮、日本の実績を無視しロシアに貸与
露国人の蔚陵 (うつりょう) 島借地二件(ママ)は、去る明治二十九年中、
伊藤内閣に西園寺侯が外務大臣たりし時に決定し、京城駐在原公使よりこの事を
報告し来たれるは、松方内閣に大隈伯が外務大臣たりし時に在りという。
随分久しき話なり。しかるに露国は、既に借地の事を定めながら、
今日までは蔚陵島を抛擲 (ほうてき) して、少しも手を着けざりしにより、
我が西海山陰辺りの商人等は自由にここに往来して、相替わらず材木を切り出し居たり、
かつこの島中に住居を定めたる者もまたこれ有り。
元来同島は往時その所属の分明ならざる処にして、日本の地図中に松島もしくは
竹島等の名を以って記載せられ、邦人はこれを我が国土視したるに相違なし。
・・・
おいおい、独島っていつできた名前だ。
古い文献には出て来んぞ。
かってに、昔の松島に独島をあてはめるなよ。
>17世紀末に朝鮮とやりとりした関係文書ら、特に竹島一件(竹島一件)の記録らを全部調査
日本人が鬱陵島に渡航していた問題だろ、幕府は鬱陵島への渡航を禁止した。
しかし、松島 (現竹島) への渡航は禁止していないぞ。
かってに話をすり替えるなよ。
>この問題はすでに1699年に終わった問題で鬱陵島(ウルルンド)と独島(ドクト)は朝鮮領土で‘我が国は関係がない(本邦関係無之)’と結論を下した
かってに変えるな 「独島(ドクト)」 という名前は入ってないはずだ。
この問題ではっきりしているのは、鬱陵島は朝鮮領土で我が国は関係がないという事だ。
>1877年太政官(太政官、明治期の最高官庁、現在の内閣)で「伺ノ竹島外一島ノ儀本邦?係無之儀ト可相心得事」といって、「竹島(チュクト)(竹島-鬱陵島(ウルルンド))外1島に対して日本と関係ないということを肝に銘じること」と最終決定を下した公文書がある。
この頃、日本では、まだ鬱陵島を竹島と言っていた。
地図では鬱陵島の横に竹島(チュクド)がある。 一島とは竹島 (チュクド) の事だろう。
今の竹島はリャンコ島だった。よってここの記述は今の竹島とは関係ない。
1882年4月李奎遠が鬱陵島に赴いた。 そこで李氏朝鮮の第26代国王・高宗は、彼に対し、
「松竹島、芋山島は鬱陵島の傍らに在り、しかしてその相距たる遠近いかん。
また何れの物有りや否や」と下問している。
この高宗の質問に対して李奎遠は 「芋山島は即ち鬱陵島にて、芋山は
古(いにしえ)の国都の名なり」とし、
「松竹島は即ち一小島にて、相距たること十里 (今の2Kmに相当)、
その産するところは即ち檀香と簡竹」 と、答えている。
このころ、日本の地図で鬱陵島が竹島だったり松島になったりして混乱していた。
高宗はわけが分からんから、聞いたようだが、答えるほうもよくわかっていなかったようだ。
彼は、鬱陵島のそばの竹島 (チュクド) を松竹島と答えている。
これが、今の竹島の筈がない。距離が近すぎる。
かつ今の竹島に檀香とか簡竹が生えているか。いまから植えるなよ。
明治32年 (1899年) でもまだ混乱し新聞は鬱陵島を竹島あるいは松島と書いていた。
〔明治32年10月1日 東京朝日〕 朝鮮、日本の実績を無視しロシアに貸与
露国人の蔚陵 (うつりょう) 島借地二件(ママ)は、去る明治二十九年中、
伊藤内閣に西園寺侯が外務大臣たりし時に決定し、京城駐在原公使よりこの事を
報告し来たれるは、松方内閣に大隈伯が外務大臣たりし時に在りという。
随分久しき話なり。しかるに露国は、既に借地の事を定めながら、
今日までは蔚陵島を抛擲 (ほうてき) して、少しも手を着けざりしにより、
我が西海山陰辺りの商人等は自由にここに往来して、相替わらず材木を切り出し居たり、
かつこの島中に住居を定めたる者もまたこれ有り。
元来同島は往時その所属の分明ならざる処にして、日本の地図中に松島もしくは
竹島等の名を以って記載せられ、邦人はこれを我が国土視したるに相違なし。
・・・
これは メッセージ 55 (k9011523 さん)への返信です.
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