「宗書」倭国伝が伝える倭王と支配国
投稿者: ftg_algernon 投稿日時: 2012/08/04 23:26 投稿番号: [46 / 65]
『宋書』倭国伝によると、倭王は南朝の東晋や宗に朝貢し、倭国は朝鮮半島南部の国々のリーダーを任されていた様である。
ただし高句麗は別枠。倭国と度々戦争をおこしている。(『好太王碑』:374年〜412年、Wikipediaを参照)
晋〜宗の時代(4〜5世紀頃)、5代に渡り倭国王,将軍に冊封されている。(『倭の五王』Wikipedia参照)
●好太王碑(広開土王碑)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91&oldid=43110668
●『倭の五王』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B&oldid=43220091
●『宋書』倭国伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
倭國在高驪東南大海中、世修貢職。
高祖永初二年、詔曰:「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」
太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。
訳): 倭国は高句麗の東南の大海中に在り、代々貢職を修める。
高祖の永初二年(421年)、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり」。
太祖の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。
讚死、弟珍立、遣使貢獻。
自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。
訳): 讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献した。
使持節、都督倭,百済,新羅,任那,秦韓,慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍号の正式な除爵を求め、詔を以てすべて聞き届けた。
二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。
訳): 元嘉二十年(443年)、倭国王済の遣使が奉じて貢献、再び安東将軍、倭国王とする。
元嘉二十八年(451年)、使持節、都督倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加叙し、併せて上る所の二十三人を将軍や郡太守に除した。
濟死、世子興遣使貢獻。
世祖大明六年、詔曰:「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王。」
訳): 済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。
世祖の大明六年(462年)、詔に曰く「倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり」。
興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
訳): 興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭,百済,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。
順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬口甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。
訳): 順帝昇明二年(478年)、遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。臣は下愚といえども、忝くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。道を進むといえども、あるいは通じ、あるいは不通。
…以下略
ただし高句麗は別枠。倭国と度々戦争をおこしている。(『好太王碑』:374年〜412年、Wikipediaを参照)
晋〜宗の時代(4〜5世紀頃)、5代に渡り倭国王,将軍に冊封されている。(『倭の五王』Wikipedia参照)
●好太王碑(広開土王碑)
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A5%BD%E5%A4%AA%E7%8E%8B%E7%A2%91&oldid=43110668
●『倭の五王』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B&oldid=43220091
●『宋書』倭国伝
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun7-sosho.htm
倭國在高驪東南大海中、世修貢職。
高祖永初二年、詔曰:「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」
太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。
訳): 倭国は高句麗の東南の大海中に在り、代々貢職を修める。
高祖の永初二年(421年)、詔に曰く「倭の讃、万里を越えて貢献を修める、遠来の忠誠を宜しく審査し、除授を賜うべきなり」。
太祖の元嘉二年(425年)、讃がまた司馬の曹達を遣わし、奉表して方物を貢献した。
讚死、弟珍立、遣使貢獻。
自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。
訳): 讃が死に、弟の珍が立つと、遣使を以て貢献した。
使持節、都督倭,百済,新羅,任那,秦韓,慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称する。上表して正式な除爵を求め、詔を以て安東将軍、倭国王に叙爵した。珍はまた倭隋ら十三人に平西、征虜、冠軍、輔国将軍号の正式な除爵を求め、詔を以てすべて聞き届けた。
二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。
訳): 元嘉二十年(443年)、倭国王済の遣使が奉じて貢献、再び安東将軍、倭国王とする。
元嘉二十八年(451年)、使持節、都督倭,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓六国諸軍事、安東将軍に旧来のように加叙し、併せて上る所の二十三人を将軍や郡太守に除した。
濟死、世子興遣使貢獻。
世祖大明六年、詔曰:「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王。」
訳): 済が死に、世子の興が遣使を以て貢献してきた。
世祖の大明六年(462年)、詔に曰く「倭王の世子の興、奕世(累代)忠を掲げ、外海に藩を作り、王化を受けて境を安寧し、うやうやしく貢職を修め、新たに邊業を嗣ぐ、宜しく爵号を授け、安東将軍、倭国王にすべきなり」。
興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。
訳): 興が死に、弟の武が立ち、使持節、都督倭,百済,新羅,任那,加羅,秦韓,慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王を自称した。
順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬口甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。
訳): 順帝昇明二年(478年)、遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉し、安らかに暮らす暇なし。東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。臣は下愚といえども、忝くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。道を進むといえども、あるいは通じ、あるいは不通。
…以下略
これは メッセージ 45 (algernon さん)への返信です.
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