Re: P597の最後
投稿者: senkaku_islands 投稿日時: 2012/02/18 08:13 投稿番号: [15 / 26]
我等ほ毎歳春三刃の頃渡島し、七’刃上旬匯帆、の節畿
舟楓具等を小阻に納め置、翌年‘渡海の節秀で毫J・差遼なか.りIノド邱・峰五枇み一
4’2’6S41奪ひべ祭S 。4zJ R・S住ず芯の摸様に見ゆれば、仝く此事朝鮮入創めて竹島を探索J g te 11'S
ひなしヽといへ吋。薦且之に、依て魚猟鶏し雖4 Q9・11。JJ !! 't'‘. I S 2及。へリと云
上討蜘び竹島を聊鮮犬ぶカヘ給ふとかや(″一四)
同年大谷村川連来る。彼二人の唐人等米子より、国府城下に到る時に加納郷左衛門、尾関忠兵衛両士領主の下知に應じて召連れ鳥取に入る[然れども此後はに見ることなし如何なりしやらん]。さて此後渡海あやりと、然るによって三年を過て元禄九年(一六九六年)丙子年正月廿八日(伯耆民談)
憲廟(徳川家綱其在職御光明天皇慶安四年[一六五一]より●元天皇延實八年[一六八〇]に至る寿八十五)の御時なるが朝鮮より竹島は鮮朝の島の由を申
上げれば竹島を朝鮮へあたえ給うとかや(草盧雑談)
かくて、御月番(正月廿八日なり)御老中戸田山城守殿奉書下され侯よしなり(竹島図説)
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