Re: 台湾・台北の旧地名の場所
投稿者: heitotakaohonors 投稿日時: 2011/04/05 12:05 投稿番号: [27 / 1484]
nagai538jp様:
世は奇成るもの、世間は狭いといいますが、私が見た昭和区からは川名本町、石川橋、南山学園(高専で新制度には南山大学)桜山、南分、長戸町、
と叔母の昭和区5番地から良く歩いたものです。歩いて5分の長池に住む
ので、松栄小学校ですが途中喧嘩好きの学生に追われて逃げていましたね。
南山高専の近くに壇渓橋がありまして死んだ猫を捨てに行き、涙を流した
のを覚えていますよ。荒田と荒畑を間違えて迷い路をしました。桜山は郵便局があり、交差点から何処へも行けたので、便利でしたね。長池から栄町
にでるにはあの古い埃が一杯の市営バスが南分停留所からでていました。
栄町で母の買い物が済んで、「ぜんざいや」で茶碗一杯のぜんざいを食べるのが楽しみでありました。熱田神宮の傍に5中がありました。戦後、「髄稜
高校」と名前がかわりました。戦後通訳をしたとき、日本技術者の中に
松栄小学校の後輩が2人いて夕食で校歌をうたいました。リズムは良く覚えていました。駅は昔は裏側がにぎやかで表側が寂しいものでした。正月には
両親と一緒に熱田神宮(神社)に初詣でをしました。何か子供心に緊張感と神秘さを覚えたものですね。戦争に入った時は鳳山神社や高雄神社(寿山の上)に参拝
するときは緊張度合いが高く、体が硬直したものです。名古屋は伊勢湾台風
と南海大地震がありました。台湾では1941年12月12日でしたか、
嘉義地震があり、戦争勃発直後で夜開けの寒い中、門の傍でぶるぶる震えて
いました。今でも次姉が昭和区5丁目に住んでいます。屏東高女を出て内地へ留学した長姉は高女の同窓会にせっせと出席しています。84歳です。兄は
台湾から幹部候補生を終えて基隆をでて敵船に追われて遅くなり幸運に生きて帰り89歳で昔の台湾を私に語ります。終戦大尉殿でした(笑い)。
軍国少年時代が懐かしいですね。
これは メッセージ 26 (nagai538jp さん)への返信です.
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