Re: 両雄倶には立たず――白川静と藤堂明保
投稿者: ajisai110701 投稿日時: 2011/09/01 01:40 投稿番号: [411 / 735]
つまりこうだ。
この本は、部分的にまちがいや不適切な箇所があるというものではなく、
根本的に、まるっきりダメである。
著者には漢字のなりたちについての本を書く資格がない。
そんな人に書かせた出版社がまちがっている。
漢字は、中国語を書きあらわした文字である。
漢字の問題は中国語学の一部分である。
漢字のなりたちについての本を書いてもらいたいならば、中国語学の
研究者にたのむべきであった、――というのである。
この全面否定書評について白川氏は、これにこたえた「文字学の方法」
の中でこう書いている。
<この書評は、あらゆる点で書評としての節度を無視している。>
白川氏の言うところは、常識的には、まことにもっともである。
よその国のことは知らないが、わが国では、書評というのは、文字の上では
「本の批評」だが、実際には本の推奨である。
不服があっても、おしまいにちょっと、こうすればなおよかった、
などとつけ加えるくらいのことだ。
しかしこのばあいのように、雑誌がある本を指定して書評を依頼してきた
ときには、読んでみてその価値を認めることができなかったら、こんなふうに
はっきりと評者の評価をのべる書評も、あってもいいのではないかと思う。
話がちょっと横道にそれかけた。
藤堂氏の書評にもどろう。それはこうはじまる。
<むかし北宋の王安石がおもしろいことを指摘した。
漢字「戔」で表される tsen という漢語があるが、それは「小さい、少ない」
という基本義を含んでいる。そこで「戔」という発音音符をもつ字で表される
ことばをあげてみると、すべてこの意味を共有している、というのである。>
そして、淺、賤、盞、殘の諸字をあげている。たしかにみな「小さい、少ない」
の意味を持っている。――なお右引用中に「漢語」という語が出てくるが、
これは中国語のことである。「漢語」と称するほうが正しいのだが、わたしの
文中では、現今の日本での慣用にしたがって「中国語」と言っておく。
藤堂氏がこういうエピソードから話を始めたのは、白川氏の本が、
もっぱら漢字の図形ばかりに目を注いで、それが中国語という「ことば」を
書きあらわしたものであることに注意していないと認めたからである。
つづく
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これは メッセージ 410 (ajisai110701 さん)への返信です.
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