李朝朝鮮

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Re: 朝鮮時代の衣食住

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/09/30 00:10 投稿番号: [364 / 1329]
以下、黄文雄著『韓国は日本人がつくった』より、ランダムに抜書きしておきます。

年間降雨量は、日本の半分しか無く、僅かな雨も不規則に降る。場合によっては、集中豪雨で僅か数時間の内に年間降雨量の半分が降ってしまう事もあった。加えて、岩山の砂質の土壌には保水性が無い為に、洪水となるのだ。この自然環境に耐えられるのは、「門前沃田」と言われる村落近くの良田のみであった。その為、農作については天意と天運に頼る外無かった。

「朝鮮農業発達史・発達篇」に依れば、李朝時代に直接農作物の作況と関係のあった記録では、旱魃:482年間に89回、水害:339年間に24回、霜害:354年間に22回、雹害:474年間に18回、となっている。
朝鮮半島の三南(忠清・慶尚・全羅)以外の地方は、元々飢饉の多い所で、最近の北朝鮮の様な食糧危機は決して特異な事では無かった。
例えば、1636年の丙子胡乱後は毎年各地で旱魃による飢饉が発生した。崇徳三年、咸鏡道に飢饉が発生し、疫病に罹った者と死者合わせて3300人余り、黄海道に蝗害が発生し、三南地方までが凶作など、3年間連続で飢饉が続いた。
朝鮮「仁祖実録」には、「六年五月、三年凶作の後、八路が大旱、両季の麦が枯れ、四野が全て赤地、これは誠に千古未曾有の大異変なり」とある。また、八年三月は「飢饉に疫病、人民は殆んど死に絶えた」とまで書いてある。1671年の大飢饉では、墓を暴いて屍体の衣を剥ぎ取り、親は子供を道端に棄てたとも言われている。

朝鮮半島に於ける山野荒廃、基岩露出、土砂流失、山河崩壊などの惨状も、自然的要因と盗伐や乱伐などの人為的要因の双方が関係している。荒廃林野の地質調査に依れば、花崗岩を基岩とする地域が全体の43%、花崗岩と片麻岩地域が40%を占めているとある。
朝鮮半島は、地質的には脊梁山脈が縦走している状態であり、日本海側では豆満江以外は河川の流路が短い。その為黄海側に注ぐ河川には大河が多くなるのだ。その上、有史以来大規模な治山、治水工事が殆んど行なわれて居らず、自然の姿そのままで放置されている。
そんな事だから、自然災害も自ずと多くなり、7,8月頃の雨季に台風が集中すれば、洪水と旱魃が交互に半島を襲う。半島の自然生態史は、斯うして作られて来たのである。

日本による統監府政治以前の朝鮮半島は、ソウルなど一部の都市部を除いて、豪雨になると洪水が平原に氾濫し、広漠たる平原が一夜にして湖沼と化して了う事が度々あった。朝鮮半島の河川流水量は日本の2倍もある一方、渇水期の流水量は10分の1から20分の1しか無かった。

韓国の「国定中学教科書」にも出ている「三韓時代」には、稲作の為に金堤の碧骨堤、尚州の恭倹池、堤州の義林池を作った事があった。
また、灌漑目的の堰堤や、河水を堰き止める為に石や土で作られた「△」と謂う物も有るには在った。歴代王朝は、堰堤の修築も多少は行なって居たのである。しかし、李朝末期になると山河は次第に荒廃して来て、堰堤らしい物は廃堤の遺跡と化し、何の役にも立たなく成って了った。その為、灌漑用水を巡っての紛争は後を絶たなかった。(△はサンズイに伏)
李朝の歴史記録を見ると、当時の堰堤と「△(boku)」の数は、朝鮮半島全体で2万4000ほど在ったとあるが、それでも奈良県や香川県の同設備の数よりも少ない。しかも、水利関係者が「万石堤」と称する貯水池以外は殆んど役に立たず、何処かに消え去り朽ち果てて了ったのであった。
灌漑用水が不足している状態では、農業は雨水に頼るしか無く、極めて原始的な耕作法しか出来ない。

半島の山林が荒廃したもう一つの原因は火田民の存在であった。火田民の主食は根菜、燕麦、粟、稗、玉蜀黍で豆類や麦類は換金用作物として価値のある物だった。
しかし、火田民にとって最も価値のある作物はアヘンの原料となる罌粟(けし)である。特に満州方面では高く売れた。火田民は、定住せずに山林を焼き払い、自給自足に近い生活を送っていた。彼等が入った後の山林は、焼畑の被害を受けやがて禿山と化し、豪雨になると土石が流出するのだった。
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