李朝朝鮮

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Re: 朝鮮時代の衣食住

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/09/25 20:15 投稿番号: [356 / 1329]
>徳川家斉の将軍就任について訪日した朝鮮通信使の正使が、日本の水車に感心してその製法を記録させたにもかかわらず、一向に取り入れられた形跡がないように、灌漑施設についてはかなり遅れていたようです。

確か、家斉のときは、1811年最後の第12回朝鮮通信使で、「対馬に差し止め」になってますね。
結局、400年間、水車すら学習しなかったんですね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF

「水車」や「貨幣経済」「造紙(紙漉)」など日本の進んだ農業技術や経済の多くのことを見聞しているにもかかわらず、朝鮮には何一つ導入されなかったというのは、驚くべきことですね。
いくら小中華といっても、このやる気のなさはどこから来たのでしょう。

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室町時代前期の一四二九年、日本に来た朴端生は、
「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を報告しています。

この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及びました。しかし、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからです。

だが、残念なことに、それらの技術はいずれも朝鮮の風土に定着しませんでした。

灌漑施設としての水車の優秀性は、その後も何度か提議されていました。
造紙のほうも17世紀になり、柳馨遠が「倭の楮(こうぞ)の軽沢精緻に如かず」と、日本の楮である倭楮を使った紙の製造を提唱しています。

これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が「徒然草」(第五十一段)に記されています。
http://toron.pepper.jp/jp/kr/textbook/kinsei.html
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(ネットで拾ったものです)

『海游録』、享保4年(1719年)に、徳川吉宗が将軍職についたときに、祝意を表するため派遣された朝鮮通信使に製述官として随行した申維翰が記録した日本紀行文。

「浦岸の人家は数百戸、麦田が縦横し、田畦には孔を穿ちて糞尿を貯えている。路上に見る樵の男や水を汲む女は、勤倹にして農家の趣きがあり、市肆の繁華とは大いに異なる。地は安芸州に属す。」

江戸に向かう一行が京都から大津へ向かった9月12日のこと。小さな峠を越えたところに道をはさんでたべものの店が並び、「それぞれ酒、餅、煎茶、焼き芋を用意して路傍に並べ置き、通行人を待って銭をかせぐ。」

「倭人は器が汚れていると食べない。」
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「日東壮遊歌」や「海遊録」以外の、朝鮮通信使の日本の記録。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=69833
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