李朝朝鮮

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朝鮮

投稿者: trip_in_the_night 投稿日時: 2006/06/24 01:11 投稿番号: [250 / 1329]
駐日韓国大使館

※なぜ、正式名称の「朝鮮」ではなく「李氏朝鮮」なのか?
日本の教科書では、「朝鮮」に言及する際に「李氏朝鮮」という表現を使い、歴史における朝鮮の位置を弱めている。日本を日本、韓国を韓国と呼ぶ事が正しいのと同様に、朝鮮は朝鮮と呼ぶべきである。

http://www.mofat.go.kr/fe/e_a001/e_jpjp/e_jpjp_a05/1186954_21871.html
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駐日韓国大使館 韓国文化院
韓国の歴史

朝鮮という言葉には、東方と光明という意味が含まれています。つまり東方の大地に日が昇る姿を形容したものであり、“鮮”は鮮卑山の略称として、 “鮮卑山の東方の国”を意味しています。

三国を統一した統一新羅の衰退とともに、再び始まった“後三国時代”を終息させたのは、高麗王朝(918〜1392)でした。太祖王建は、新羅末に分裂した韓半島を再び統一して、高句麗の昔の精神を受け継ぐために、高句麗を縮めて高麗という国号を称しました。この時にサラセンと活発な国際交易が行われ、サラセン商人が韓国の国名を西洋に伝え、西洋人は高麗をコレ(Coree)またはコリア(Corea、Korea) と呼びました。 高麗王朝は、高句麗の継承を唱え、その地を回復しようという意志から、対外的に北進政策を、対内的には仏教を国教として定め、政治、文化の発展の基盤としました。

14世紀後半に入り、高麗王朝は政治体制が弱まって王権が衰退し、外からの異民族の侵入が続くなどの混乱が繰りかえされました。それに続き、 咸鏡道出身の武将である李成桂が中央政界に進出し、田制改革を断行して経済的基盤を整えました。 ついに1392年7月16日開城で王位に上がり国を開いたのが朝鮮王朝でした。
朝鮮王朝はその基盤を確かにしようと、三大政策を建国の理念として前面に押し出しました。 第一に、外交政策として事大交隣主義を採択し、 中国の明国に対する使臣の往来を通して経済的・文化的な実利を得て、それと共に新しい王朝の国際的地位を確保しました。一方、日本と女真に対しては交隣を前面に押し出し、友好的な交際で平和維持を試みましたが、彼らが国境周辺を混乱させると武力で制裁しました。第二に、文化政策として、崇儒排仏主義を前面に押し出しました。仏教を排斥し、儒教を政治・文化・思想界の根本理念になるようにし、 教育・科挙・儀礼は儒教的な体制に変わっていきました。第三に、経済政策では、農本民生主義を採択し、建国当初から農業を積極的に奨励して国民生活の安定に努力しました。
朝鮮王朝は、農業生産力が高く、交通と軍事の要地である漢陽(今のソウル)を都に定め、城への出入り口には崇礼門(南大門)を始めとして四大門を建てました。そして1910年最後の王である純宗に至るまで27名の王が継承し、519年間持続しました。
しかし、高宗から純宗までの激動期を経た朝鮮王朝は19世紀半ばに入って、朝鮮の伝統社会を維持することができない状況になりました。西欧の持続的な門戸開放要求を受け、ついに1876年開港とともに朝鮮は近代社会への転換がなされました。
http://www.koreanculture.jp/syoukai_02.html
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